【39】動かねば変わらぬもの
「ウツギさん、来ました」
黒ノ森を指差して言ったナバナの声に、その場に緊張と警戒がかすかに混ざった。
闇が広がる森の中から、こちらに向かってくる人影がぼんやりと浮かび上がった。数は二つ。一歩ずつ大地を踏みしめながら森を抜けてやってきたのは、シュロさんとカガチさんの二人だった。
昨晩、ウツギさんは黒龍隊に使いを送っていた。私が夜叉の地にいることや、帰す条件として浚われた夜叉の子供達を〈タンガラ〉から助け出すこと、この事実をカイドウ帝国の皇帝の耳に入れること。そして、私の代わりとなる人質を用意することを記した書状が届けられていた。
夜が開けるまで、私は不安で眠れずにいた。夜叉が城を襲った一件から間もなかった上に、あれこれ条件の記された書状を持って夜叉の使いがやってきたのだ。それが真実であることを、誰が信じでくれるだろうか。
何かの罠だと疑われて相手にされない可能性もあった。けれど、こうしてシュロさんが来てくれて内心ほっとしていた。
「話は受け取った書状で確認した。〈タンガラ〉の件も陛下に報告させてもらった」
少し距離を置いて立ち止まったシュロさんは、警戒を強めたままウツギさんに声をかけた。
数日振りに見るシュロさんの姿に、嬉しさが体の中を駆け巡るのが手に取るようにわかる。今すぐにでも駆け寄りたいほど嬉しいはずなのに、奇妙な罪悪感のようなものに襲われて、その姿を真っ直ぐに見られなかった。
「そちらの皇帝は何と?」
「〝事態を把握できず、悪化させた責任は私にある。必ずや夜叉の子供達を救出し、罪深き罪人は厳重に処罰する〟とのことだ」
「そうか、」
と、ウツギさんは静かに頷いた。
「書状に記した通り、アオバはそちらに戻す。監視役として、我が一族からナバナを同行させる。人質は子供達を無事に連れ戻した後、帝都に送り届けよう」
「了解した」
「それでは、総長。行ってまいります」
カガチさんはそう切り出して深々と一礼し、迷うことなく真っ直ぐにこちらへやってくる。私の前で立ち止まると――
「本当、アオバさんは厄介なことに巻き込まれる方ですね」
満面の笑みでさらりと嫌味を言うものだから、私は申し訳なくて苦笑いを返した。
まさか、人質役を引き受けてくれたのがカガチさんだったとは驚きだった。私の予想ではシオンが来てくれるのだとばかり思っていたから、カガチさんの姿が見えた時は本当に驚いた。
「使いの話では、人質の件はアオバさんの提案だと伺いましたが?」
「えっと……そうなんです。ごめんなさい、とっさに思いついたのがその案しかなくて」
「ふふっ、これは大きな貸しができましたね」
不敵に笑うカガチさんは、シュロさんよりも質が悪そう。〝貸し〟というからには、いつかその貸しを返さなければならないはず。何を言いつけられるのか、考えただけで溜息が出る。
「アオバ!」
その声に呼ばれ、恐る恐る顔を上げた私に、シュロさんはスッと手を差し出した。
「ほら、総長がお呼びですよ」
「は、はい……」
「まったく。何を迷っているんですか? さっさと仕事を終わらせて、早く私を解放して下さいね」
カガチさんは含み笑い、二の足を踏んでいる私の背中を強めに押した。
押されるがまま重たい一歩を踏み出し、シュロさんのもとへ歩み寄った。差し出されたその手を取ると、そのまま力強く引き寄せられる。見上げれば、眉間にシワを寄せて見下ろすシュロさんが待ち構えていた。
「どうしてお前は、いつも厄介事に巻き込まれるんだ。突然姿が消えて、寄宿舎では大騒ぎだったんだぞ」
「すみませんでした……」
「怪我はしてないな?」
「はい、見ての通りです」
「……そうか。無事でよかった」
安堵の溜息をついて、私の存在を確かめるみたいに指先で頬に触れた。けれど、それもほんの一瞬。思い出したようにハッと驚いて、シュロさんはその手を引っ込めてしまった。
こんな状況でも、シュロさんは私との距離を置こうとしている。そんなに拒むくらいなら、いつもみたいに嫌味を言ってくれた方が幾分か気持ちも晴れたかもしれない。
「アオバ、まだ行かないのか?」
いつまでも話していることがじれったくなったのか、ナバナが苛立った様子で駆け寄ってきた。
「待たせてごめんね。行きましょう」
「俺は白狼の力を使わなければ森は抜けられない。だが最低限、力は使いたくないんだ。森の案内、頼んでもいいか?」
そう訊ねるシュロさんに、ナバナはあからさまに面倒そうな顔をした。「なんで僕が」と、ブツブツ文句を言っていたけれど、きっと本質的にはいい子なのだと思う。渋々ながらも先頭を切って黒ノ森に入っていった。
それからしばらくは無言が続いた。会話もなく、闇と静寂が支配する森をただひたすらに黙々と歩き続ける。
会話はなかったけれど、時折、シュロさんが私の歩幅に合わせているような時があった。遅れそうになると速度を落として、さりげなく隣に並んで歩いてくれる。その自然な気遣いが妙に嬉しかった。
「どうして夜叉の地に行ったんだ?」
しばらく口を閉ざしていたシュロさんが、唐突に訊ねてきた。
「シオンも心配してたぞ。包帯を持って地下牢に戻ったら、アオバがいなくなっていたって。あの夜叉達に何か言われて騙されたのか?」
「違いますよ。捕えた夜叉達から、白狼(ハクロウ)の力を制御する方法を聞き出すことができたんです」
懐にしまっていた月下香を取出し、それをシュロの手に握らせた。
「これは?」
「月下香といって、白狼(ハクロウ)の力の暴走を抑えるために夜叉が使用している札香です。それを使えば、シュロさんの力も制御できます」
「これを手に入れるために夜叉の地へ行ったのか? だが、黒ノ森はどうやって抜けたんだ? あのウツギという男がよこした書状には、夜叉の力がなければ抜けられないとあった」
「もちろん、自分の足で抜けたんです。その分、少しだけ犠牲は払いましたけどね」
ほんの少しだけなら、きっと大丈夫。自らにそう問いかけ、微かに震える手を胸に当てて息を吸い込んだ。
怒りの感情を体の奥で湧き上がらせ、宿したばかりの白狼を目覚めさせた。髪は銀色に、瞳は黄金に変わる様を見て、シュロさんがごくりと息を呑んだのがわかった。
「シュロさんとお揃いですよ」
「お前〈夜叉ノ契〉を!? 馬鹿かっ! いや、俺が思っている以上に馬鹿だ、お前はっ!」
「ば、馬鹿!? 私の何を見て馬鹿なんですかっ」
「これだ、これに決まっているだろう! なぜ相談もなしに勝手なことをしたんだ!」
シュロさんは今までにないくらい怒鳴りながら、色の変わった私の髪に触れた。
それは私自身、無謀だとは思ったから反論はできなかった。ただ、これが間違いだったとは思いたくなかった。
「お前まで白狼(ハクロウ)の力を手に入れてどうするんだ! 俺みたいに力が暴走するかもしれないんだぞ!」
「だから、それを抑える方法を見つけたんです。この力を手に入れなければ、得られなかった答えですよ」
「それは、そうだが……」
「城を襲ってきた夜叉の方に感謝ですね。おかげで黒ノ森を抜けて、薬の作り方を手に入れることができたんですから。これでいつでも作れますし、あの力に悩まずに済みます」
「だからと言って、こんな……自ら問題を抱え込むヤツがあるか?」
「大丈夫です! 物事っていうのは、悩んでいても仕方ありません。なるようにしか、なりませんから」
「……アオバ」
不意に名前を呼ばれて、とっさに顔を上げた。
「ありがとう」
シュロさんは、今までにないくらい優しい笑顔でそう言った。その時、脳裏を過って重なったのは、またしてもお師匠様の言葉だった。
―― 私ね、ありがとうって言葉が一番好きなのよ
その意味が今、はっきりと分かった気がした。どんなに辛いことも、どんなに悲しいことも、一瞬にして吹き飛ばしてしまうくらい強くて優しい言葉だ。
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