【38】夜叉の香術師
長の屋敷を出て、ウツギさんに連れられ向かった先は緋ノ里の〈市場〉。帝都と同じように、そこに住む夜叉達の日常があった。
夕食の材料を買いにやってきた女達
新鮮な野菜が採れたと声をかける野菜売り
こっちはあの店より二銀も安いよと女達に声をかける肉屋の男
目の前に広がるその光景は、私がショウジョウや帝都で見ていた〝どこにでもある日常〟だった。種族は違っても、私達は何も変わらないのだと思い知らされた気がした。
穏やかな風が吹く緋ノ里の光景を横目に、ウツギさんは通りの外れにある一軒の店の前で立ち止まった。
「〈蛍堂〉? この香りは……調香屋ですか?」
「この里で月下香を作れるのは、今はもうこの店の主だけなんだ。貴重な技術だから、しっかり憶えていけよ」
「は、はいっ」
入口にかけられた紫紺色の暖簾を潜り、ウツギさんと共に店へ足を踏み入れた。
昼間だというのに店内は薄暗く、部屋の四隅に置かれた行燈(あんどん)が淡い橙色の光を放って、辺りを柔らかく照らしている。漂う香りのせいなのか、それとも行燈の光のせいなのか。この場所だけ時間が止まってしまったような、なんとも不思議な心地にさせる店だった。
壁に寄せて並べられた棚には売り物の香が置かれている。香木、練香、線香など、並んでいるのはどこでも手に入る種類ばかりだが、その香りは私の知らない珍しいものばかり。何の香りなのか、どこで手に入るのかと、つい夢中になって眺めてしまった。
「ナバナ、戻ってるか?」
ウツギさんが声をかけると、奥の部屋からパタパタと駆ける足音がする。「いますよ!」と、弾むような明るい返事をして出てきたのは――
「あっ! お前はさっきの!」
「あっ! あなたっ」
互いの声が見事に重なった。ナバナと呼ばれて姿を見せた彼は、私を捕えた時にウツギさんに食って掛かった、あの少年夜叉だった。
ウツギさんを出迎えた時は満面の笑みだったのに、私を見るなりあからさまな顰めっ面に切り替えた。まるで牙を向き出しにして威嚇する野良犬みたいだ。
「ウツギさん、どうしてここその女がいるんですか!」
「どうしてって、用があるから連れてきたんだよ」
背中を押され、勢いのまま彼の前に突き出された。
突然私が接近したものだから、ナバナは大袈裟なくらい驚いて飛び退いた。彼に対して危害を加えたわけでもないし、憎まれるようなこともしていないというのに。ここまで拒絶されると、怒りよりも呆れの方が勝ってしまった。
「ナバナ、アオバに月下香の作り方を教えてやってくれ」
「絶対に嫌です!」
ナバナは即答し、おまけにそっぽまで向いてしまった。まるで子供の反応だ。
態度としては不愉快だし思うところもあったけれど、そういう反応をされることくらい予測済みだった。
「ウツギさんの頼みでも、こればっかりは引き受けられません! どうして僕がこいつに月下香の作り方なんか……」
「気持ちはわかるけどな。そこを頼むよ」
「嫌です!」
長代理であるウツギさんの頼みすら断るくらいだ。そう簡単には折れることはない。
先行きが不安になって溜息をつく私の脳裏に、シュロさんの姿が浮かんでは消える――いつもの不敵な笑顔、白狼の力を解放した姿、力の暴走に苦しむ姿。
嫌味を言われても、からかわれてもいい。そのくらいは我慢できるけど、辛そうにしているのは見ていられない。シュロさんがこの先も笑顔で過ごせるように、ここで私が頑張らなければいけないんだ。
「さっきから何なのよっ。ちょっと、私の話、聞きなさい!」
「な、何だよっ。近寄るなよ!」
「お願い、作り方を教えて! やっと助けられる方法が見つかったの。ここで諦めるわけにはいかないのよ」
「な、何なんだよ!」
今すぐに教えろと迫る私が怖くなったのか、それとも人と接するのが嫌なのか。助けを求める視線をウツギさんに送っていた。
「ウ、ウツギさんっ。こいつ、どこかにやってくださいよ!」
「アオバは、大切な人を助けたいらしい。そのために、自ら〈夜叉ノ契〉を結んで半狼になったくらいだ。食らいついたら、そう簡単には諦めないぞ」
「そんなの、僕には関係のないことです! おいっ、邪魔だよっ!」
ナバナは私を押し退けて店の片づけを始めた。その背中を見ながら、ウツギさんは仕方なさそうに溜息をついた。
「お前の妹、スズが無事に戻ってくるかもしれないんだぞ」
その言葉に、ナバナはハッと素早く振り返って目を見開いた。
話の内容から察するに、連れ去られた夜叉の子供達の中に、ナバナの妹がいるのだろう。
「スズ……が?」
「さっき、アオバに子供達のことを話した。こいつ、変わったヤツでな。俺達の代わりに、さらわれた夜叉の子供達を助けに行くと言い出したんだ。まぁ、その条件として月下香の作り方を教えると約束したんだ」
「それ……本当なんですか?」
ウツギさんは深く頷いた。いくら信頼する長の息子の言うことでも、私が関っているとなると信用できないらしい。私に向ける眼差しは半信半疑だった。
「お前みたいなガキに助けられるとは思えない」
「ガキ? そういうあなただって、私と大して歳は変わらないガキじゃない! ガキにガキなんて、言われたくはないわ」
下手に反論すると何をされるかわからなかったから我慢していたけれど、さすがに言われっぱなしでいるのも限界だった。思い切って言い返すと、ナバナもムッとして詰め寄ってきた。
「……夜叉なのに、助けるのか?」
「そんなこと言ってるから、いつまで経ってもいがみ合うことになるのよ。ここに私のお師匠様がいたら〝先入観を捨てて物事を見ろっ。つまらんことを言うな!〟って怒鳴られるわよ?」
そう、きっとお師匠様ならそう言うはずだ。
夜叉であるとか、人間であるとか、そんなことはどうでもいいこと。種族なんてものを取り払ってしまえば、私とナバナの間にあるのは、互いの目的のために〝協力する〟という言葉と関係だけ。それをナバナがどこまで受け入れてくれるのかが問題だ。
自分がどう答えを出すべきなのか、ナバナは迷っているようだった。唸るような溜息をつき、唇を何度か噛みしめ、少し苛立ったように「ふんっ」と息を吐いて作業台に向かった。しばらくして、こちらを横目でチラチラ確認したかと思えば、気まずそうに手招きをした。
「一度しか教えないから、よく見ておけよ!」
「うん、ありがとう!」
ぶっきら棒な態度ではあったけれど、ナバナは月下香の作り方を一つひとつ教えてくれた。
花を乾燥させ、炙って、乳鉢ですり潰して。あれをして、これをしてと、手際よく指示を出してくれる。私もその誠意に答えようと、必死になって工程を頭に叩き込んだ。
「月下の花には毒があるから、一度乾燥させたあと煎ってさらに水分を飛ばすんだ」
「粉末にした後は、この月下の種油と混ぜて札に塗るのね? こっちは効力を増幅させる術式? 凄い、こんな妖術の術式は初めて見た」
使用される材料はもちろん、香に施す妖術の術式も、何もかもがショウジョウや帝都では見たことのない技術ばかり。まだまだ世界には知らないことがたくさんあるのだと思い知らされた。
「あのさ」
夢中になっている私に、ナバナが不意に声をかけた。こちらを覗き込むその目には、どこか戸惑いの色が浮かんでいた。
「何?」
「いや……変なヤツだなって思って」
「私が?」
ナバナはこくりと頷いた。一体、私のどこを見て変だと思ったのか。失礼にもほどがある。思わずムッとして目を細めた。
「僕が嘘を教えてるとか、疑わないのか?」
「えっ、嘘だったの!」
ここまで教えてくれたことの全てが嘘だというのか。まさか、そんな馬鹿なことが。
驚く私と同じように、なぜかナバナも目を丸くして驚いている。互いに驚いた顔で見つめ合っていると、ナバナがニッと歯を見せて笑った。なぜ笑われたのかも分からず、私は首を傾げた。
「心配しなくても、嘘なんて教えてないよ。いくらお前が人間でも、嘘を教えるのは嫌だし」
「なんだ、驚かさないでよ……」
「でもさ、普通は嫌がったり疑ったりするだろ? 僕だって本音を言えば……人間に技術を教えるなんて気が進まないし。お前だって同じだろ?」
「はっきり言わせてもらうけど、ナバナの考えと私の考え、一緒にしないでほしいわ」
他の事ならまだしも、香術に関することなら話は別だ。種族間の問題を香術に持ち込まれたくない。それが私の信念だからだ。
「技術を教わる相手を種族で判断したりないわ。優れた能力を持つ者に夜叉も人間もないもの。カイドウ帝国も妖術大国なんて言われているけど、元を辿れば香術の基礎を築いたのは夜叉だと古文書にあったわ。独自で発展させた人間の技術よりも、古くから伝承される夜叉の技術を一から教わりたいくらいで――」
「ふっ」
話を遮るように笑い声が割り込んだ。今の今まで傍で見ていたウツギさんが、こちらを見ておかしそうに笑っていた。
「ど、どうして笑うんですか!」
「いや、本当に変なヤツだなと思ってな。夜叉から教わりたいなんて、本当変わってるよ」
と、また笑う。それにつられたのか、今までムスッとしていたナバナも堪えきれなくなってケラケラと笑いだした。
「人も夜叉も皆、アオバのような考えを持っていれば、争いも迫害も起こらないのかもしれないな」
その時初めて、ウツギさんが心の底から笑ったように思えた。その笑顔は、どことなくシュロさんと似ているような気がして、胸の奥が締めつけられた。
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