【32】すれ違う心(1)

「んっ……」


 肩に広がる痛みが全身を駆け抜け、私はそっと目を開けた。視界に映ったのは、いつもの見慣れた天井だった。

 いつの間にシュロさんの部屋に戻ってきたのだろう。そんなことを考えながら辺りに目をやると、少しばかり様子が違っていることに気づいた。


 壁に並んだ本棚には、少しの隙間もないくらいにびっしりと本が並んでいる。乱れることなく整頓されたその様はまるで書庫。その本の影響なのか、室内も心なしか古い紙の匂いが漂っている。

 シュロさんの部屋に本棚は一つしかなかったし、埋め尽くすほどの量もなかった。寄宿舎の一室には間違いないみたいだけれど、見慣れたシュロさんの部屋ではないことは確かだった。


「気が付いたか?」


 シュロさんの声がして、天井に向けていた視線を窓の方へと向けた。射し込んだ朝陽を背に浴び、椅子に腰かけたシュロさんが心配そうにこちらを見ていた。


「……ここ、どこですか? シュロさんの部屋じゃないみたいですけど」

「シオンの部屋だ。今日からこの部屋を使うといい。シオンは俺と同室にさせたよ」

「えっ……?」

「傷のこともあるから、一人のほうが落ち着くだろう?」


 傷を治すだけなら、シュロさんの部屋でも問題はないはずだ。そこまでして私との同質を解消したのはきっと……思い当たる理由は一つしかない。それを確かめるように、包帯の巻かれた肩に触れた。


「また夜叉の血が暴走したら襲うかもしれない……そう思ってるんですか?」


 何も言い返さないのが何よりの証拠だ。シュロさんはばつが悪そうに視線を外した。


「傷なら薬香ですぐ治りますし、気にしないで下さい。だから!」


 その先を言わせないようにしたかったのか、シュロさんは席を立ってこちらにやってくると、私の頭にそっと触れた。いつものようにちょっとだけ乱暴に、それでも少しだけ優しく撫でて困ったように笑う。そんな笑顔を見せられたら何も言えなくなってしまった。


「ゆっくり休めよ」


 そう一言だけ告げて、シュロさんは部屋を出ていった。

 とたんに室内が静かになった。シュロさんが本を開く音も、義手の動きが鈍くなって軋む音も、「よく寝ていたな」とからかう声も、何もかもこの部屋では聞こえない。

 じっとしていられなくて体を起こすと、枕元に香炉と薬香が置いてあることに気づいた。きっとシュロさんが用意したのだろう。


 香炉に薬香を入れて手を翳した。撫でるように宙で円を描けば、やがてチリチリと音を立てて燃え上がった。立ち昇る煙を静かに吸い込めば、肩に走っていた痛みの波も静かに体の奥へと引いていく。

 私は寝台の淵に浅く腰掛け、何をするわけでもなく、ただぼんやりと部屋を見回した。シオンらしいというか、室内は清潔感があって、書物がたくさんあるのに整頓されている。ただ、殺風景なあの部屋の方が落ち着くと思ってしまうから不思議だった。


「部屋の作りは、全て一緒なのね」


 シュロさんの部屋と同じように、窓際には机と椅子がある。無意識の内に、そこに座るシュロさんの姿を想像してしまった。


「初めてかもしれない。私が香術以外のことに心を囚われているのって……」

 

 生きるため

 助けてくれたお師匠様を越えるため

 助けられた分だけ誰かを助けるため


 理由はたくさんあるけれど、好きな香術をがむしゃらに追ってきた。そのはずだった。きっと、私の心は妖に食われてしまったんだ。そうでなければ、こんなにも迷って悩むことなんてなかったのだから。


「……立ち止まったって、答えなんて出ないよね」


 諦めるのは私の性に合わない。傍に居たいと思ったなら迷わず傍に居ればいい。それ以外にどんな答えがあるだろうか。

 私は部屋を飛び出し、シュロさんの後を追った。どこへ行ったのか行方がわからず、とりあえず寄宿舎の玄関へ向かった。その途中、廊下の角を曲がったところでヒユリさんとシオンに出くわした。


「あっ、シオン!」

「アオアオ! もう大丈夫なの? 傷は?」

 私が走っていたことに驚いたのか、少し慌てた様子で肩に目をやった。

「平気だよ。シオンこそ大丈夫なの?」

「うん、僕はいつものことだから。それより、どうかしたの? 急いでるみたい」

「シュロさん、どこに行ったか知ってる?」

「警邏に出るって言ってたから、厩舎に行ったはずだよ」

「厩舎ね。ありがとう」


 先へ行こうとすると、なぜかヒユリさんが私の前に立ちはだかった。左に退けば左に、右に退けは右へと、なぜか行く手を塞いでしまう。


「あ、あのっ……ヒユリさん?」

「私はあんたのこと、大嫌いだわ」


 行く手を塞いだかと思えば、今度は嫌いだと言い放つ。おまけに、今までつけたことのなかった〝大〟がつけられてしまった。


「だ、大嫌い、ですか」

「あんたのせいで、シュロさんは変わったわ。以前は何かに迷うようなことなんて無かった。真っ直ぐで、強くて……けど、今は何かに迷って凄く苦しそう。全部あんたのせいよ!」


 物を投げつけるみたいに、感情のまま言葉をぶつけてヒユリさんは離れていった。

 私のせい――きっとその通りだ。夜叉の血の暴走で私に傷を負わせたことも、シュロさんは少なからず気にしている。きっと、私がいなければシュロさんが迷うことなんてなかったはすだ。


「アオアオ、気にしないで」

「うん、平気。ヒユリさんの言葉は、シュロさんを想ってのことだもの。当然だわ」


 私なんかより、ずっと長い間傍にいて見守ってきたのはヒユリさんだ。想いを寄せる人の変化には敏感に気づいているはず。

 ヒユリさんの目にそう映ったということは、シュロさんは確実に迷って悩んでいる。それでも、傍に居たいというこの想いを諦めるつもりはない。ヒユリさんには悪いけど、ここで引くつもりはない。


「私、シュロさんの所に行くね」

「本当に、行くの? 今近づいても傷つくだけだよ?」

「シュロさんのこと?」


 シオンはこくりと頷いた。


「心を閉ざそうとしてる。総長は頑固だから、言うこと聞かないかも」

「それでも、話がしたいの」


 きっぱりと言い切った私のことが心配になったのか、シオンは一緒についていくという。一人でも平気だったのだけれど、シオンも案外頑固だから譲らなかった。

 シオン付き添いのもと、私達は厩舎へと向かった。朝の警邏から一日が始まるため、厩舎にいるだろうと行ってみると、思った通り、シュロさんは愛馬に鞍を付けている最中だった。


「シュロさん」


 おそるおそる声をかけた。シュロさんは反射的に手を止めたけれど、振り向いてはくれなかった。


「アオバか。どうした? 傷も治らないうちに起きたら体に悪いぞ」


 言葉は優しいけれど、明らかに態度は素気ない。声をかけたと言うのに、やはりこちらへ振り向こうとすらしてくれなかった。


「あの、昨日のことなんですけど。シュロさんは何も気にする必要は――」

「あっ、そうだ。アオバ、一つ仕事を頼んでいいか?」


 あからさまに話を逸らされた。ようやくこちらを向いてくれたけれど、一度目を合わせただけで、すぐに逸らされてしまった。


「そろそろ昼になる。捕えた夜叉の連中に飯を運んでやってくれ。シオンに任せたんだが、一人じゃ大変だろうから。傷のこともあるから、アオバも無理しない程度にな」

「わ、わかりました……」

「頼んだぞ」


 素早く馬に跨り、シュロさんは厩舎を出て行った。

 心を閉ざそうとしている。シオンが言っていた言葉の意味がはっきりとわかった。私から距離を置こうとしている。傍に居たいのに遠ざかっていくことが、こんなにも胸が苦しくなるなんて思いもしなかった。


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