【21】夜を越えて(1)
◆◆◆◆
夢を見た。もう何年も見ていなかった、父の夢。
眩い光の中に佇むその大きな背中に手を伸ばす。振り返った父は優しく微笑みながら私の名を呼び、大きな手で頭を撫でた。
いや、どこにも行かないで――この手が離れてしまったら、二度と会うことはできない。引き止めようと手を伸ばした直後、ハッと目が覚めた。
ふと、頭を撫でられていることに気づいて顔を上げた。その先にあったのは、こちらを覗き込んでいるシュロさんだった。
「おっ。やっと起きたか」
私はきょとんとシュロを見つめた。
最初は頭がぼんやりして状況が掴めずにいた。どうして寝てしまったのかと、自らの行動を整理していたせいか、無意識の内に凝視していたらしい。見つめられたシュロさんは、いつものように意地悪そうな半笑いを見せる。
「泣くのか驚くのか、どっちかにしてくれ」
「えっ? あっ……」
不思議に思って頬に触れると、確かに私の頬はうっすらと濡れていて、涙が伝ったあとが残っていた。言われるまでまったく気づかなくて、慌てて拭った。
「怖い夢でも見たのか? それで泣くなんて、まだまだ子供だな」
「違いますよっ。それより、もう大丈夫なんですか?」
「あぁ。情けない姿を見せてすまなかった」
申し訳なさそうに苦笑いを浮かべて寝台をおり、長椅子に腰を下ろした。いつもなら、もっと嫌味を言うか、からかってくるはずなのに、その時ばかりは妙にしおらしい。素直に「すまなかった」なんて言われたら、言い返せなくなってしまった。
「あれは、何だったんですか? 突然、夜叉の力が表れたように見えましたけど」
私は少し間を開けて、シュロさんの隣に座った。
「……俺にも詳しいことはわからない」
「わからないんですか?」
「あくまで推測だが、夜叉の血が問題なんだろう」
と、自らの胸をトントンと指先で叩いた。
「拒絶反応とでも言うべきか、時々ああなる。おそらく夜叉の血が暴走して、一時的に極度の妖力不足に陥るらしい。だから、定期的に花から妖力を補給していたんだが、最近は忙しかったからな。少し油断していた」
その横顔を見つめながら、机の上に飾られたたくさんの花に目をやった。
あの花は全て白狼の暴走を抑えるため。男性の部屋なのにやけに花が多く飾ってあったのは、単に花が好きだという理由ではなかったのだ。
「このことは、ここにいる皆さんも知ってるんですか?」
「いいや。余計な心配はかけたくないから、話してはいない。ただ、シオンだけは知ってる。あいつには全て見えているからな。隠していても心を読まれるから困るよ」
「治らないんですか?」
「今のところ方法はない。だが、あったとしても今は治すつもりもないよ」
静かに視線を落とし、右手をゆっくりと、そして強く握りしめた。
「少々厄介ではあるが、この力はいざという時に仲間を守る力になる。捨てるには惜しい力だ」
「でも、あんな不安定な状態になることと引き換えってことですよね?」
「それでも、仲間は守れる。上手く付き合っていくつもりだ。まぁ、お前に心配されるほど、大袈裟なものじゃない」
シュロさんはいつものように不敵に笑った。
治らないと諦めているのか、それとも自分を言い聞かせるために強がっているのか。その表情からは読み取ることはできなかった。それが返って心配で、もどかしさで胸がいっぱいになるのがはっきりとわかった。
「シュロさん、私もお手伝いしますっ」
「手伝うって、何を?」
「白狼の力を抑える手伝いですっ。あんな状態の姿見せられて放っておけません! どこまで心配させれば気が済む……」
「えっと、ほら、香術師として総長の体調管理も仕事の一つですから! シュロさんが皆に知られたくないと言うなら、あの症状が出ないように妖力が補給できるような香を作ります」
「なんだ、やけに仕事熱心だな。そうか、あれだ! 何か欲しい物があって、俺の機嫌を取ろうって魂胆か?」
「またそうやって茶化す!」
「ははっ、冗談だ。ありがとう、そうしてくれると助かる」
さっきとは打って変わって、真っ直ぐに向けられた言葉と笑顔に怯んで文句すら言えなくなった。本当に、シュロさんはずるい。
いつもは嫌味を言ったり、からかったりするくせに「ありがとう」や「ごめん」という言葉は、何の躊躇いもなく真面目な顔をして言うから厄介だ。
やり場を失った恥ずかしさと小さな怒りをぶつけるように、私は寝台を強く指差した。
「さぁ、今日こそは寝台を使って寝て下さいね! これは香術師としての命令です」
「甘い。香術師ごときが、俺に指図できると思うなよ? 俺はここの総長だからな」
「総長がなんだっていうんです? 今日くらいは言うこと聞いて下さいよ!」
「悔しかったら、力づくで移動させてみたらどうだ?」
どこからでもかかってこいと、どっしりと座り、腕を組んで構えている。どうあっても寝台で寝るつもりはないらしい。やはりカガチさんが言っていたことは本当なのだろうか。
「そう言えば、カガチさんから聞きました。シュロさんは夜眠らず、明け方になってから眠るようにしているって。シオンが言っていたそうです」
「……シオンか。まったく、余計なことを」
バツが悪そうに顔を
ここで負けては有耶無耶にされる気がして〝話してくれるまで目を離しませんよ〟と無言の威嚇をする。しばらくは無言の睨み合いが続いていたけれど、引き下がらない私にようやく諦めがついたらしく、シュロさんは深めの溜息をついて頭をかいた。
「シュロさん、どうして眠ろうとしないんですか?」
「……眠りたくないんだ。夜が怖い、そう言った方がいいかもしれない」
シュロさんの口から告げられたのは、その姿からは想像もつかないような、弱気な言葉だった。そんな言葉が返ってくるとは予想もしていなくて、一瞬、返す言葉に困ってしまった。
「暗闇が怖いということですか?」
「それとは少し違う。目を瞑ると、嫌な記憶が蘇るんだ」
そう答えたシュロさんの声は、心なしか震えていた。
天井を見上げる横顔も、一点を見つめる瞳も、引き結ばれた唇も、全てに深く濃い恐れが滲んでいるように見えた。
「紅炎の大戦で、俺は多くの仲間を失った。その時の光景が瞼の裏に焼きついて離れない。夜になると特にその記憶が蘇って……それに、目を閉じたら内に巣食う呪いに体を乗っ取られるような気がして恐ろしくなる」
長椅子の背に凭れていた体を起こして身を屈め、不安げに両手で額を抑えた。その様子を見てふと脳裏に浮かんだのは、裏庭で眠っていたシュロさんが涙を流した時の姿だった。
どんな夢を見て涙を流したのか、あの時はわからなかった。けれど、今ならわかる気がする。あれは、失ってしまった大切な人への想いと、救えなかったことへの後悔、そして自分が自分ではなくなってしまう恐怖の涙だったのだろう。そして今も、その想いに囚われ続けているんだ。
「情けないが……日が昇らないと眠れなくなった。夜、眠らないのはそういう訳だ」
「それじゃあ、これからも眠らないつもりですか?」
「あぁ、そのつもりだ。だから、アオバは気にせずに寝台を使って寝ろ」
「いえ、シュロさんが眠らないなら、私も起きています」
「あのなぁ……今の話を聞いて、どうしてそういう答えに行きつくんだ?」
「だって、朝になるまで独りで起きてるなんて、退屈するじゃないですか」
「いや、だから――」
それ以上文句を言わせないように、作り置きしてあった蛍香に火を灯した。
淡い光が蛍のようにふわりと広がり、花梨の香りが空気の中に溶けていく。シュロさんは落ち着いた様子で漂う光を眺めていた。
「シュロさん、手を出して下さい」
「手? 今度は何を企んでるんだ?」
「何も企んでいません。ほら、今は素直になりなさい。専属香術師命令です」
「……わかったよ。これでいいか」
シュロさんは渋々手を差し出した。私はその手を包み込むように両手で握る。その行動の意図がわからなかったらしく、シュロさんは戸惑った様子で私の顔を何度も覗き込んだ。
「人の手には不思議な力があるんです。触れているだけで安心したり、気持ちが穏やかになったり。だから、本当は薬香なんて必要がないくらい、凄い力があるんですよ」
「もしかして、俺の気持ちを落ち着かせようとしてるのか?」
「そうなったらいいなって思っています」
私なりの、精一杯の言葉だった。
平静を装ってはいるけれど、本当は逃げ出してしまいたいほど緊張していた。こんな風に誰かの手を握ることなど、今までに一度だってなかった。
だから、私は密かに願った。「手を握りたかっただけだろう」とか「案外積極的だな」と、いつもの嫌味を言ってくれるだろうと期待した。けれど、こんな時に限ってシュロさんはいつになく真面目。優しい笑みを浮かべつつも、困ったような複雑な表情を向けていた。
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