【20】狼の暴走

 慣れた足取りで露店通りに入り、人混みの流れに乗って歩いて行く。夕食の食材を買いに来た女性達を見て、何かを思い出したらしく、シュロさんが「そういえば」と口を開いた。


「今日の夕飯な、牛が出るらしいぞ」

「牛肉ですか? 黒龍隊って高価なもの食べてるんですね」

「たまにはそういうものを食わないとな」


 牛は城に献上されるため、平民には出回らない代物。城に居るというだけで食べられるなんて贅沢だと、文句をぶつけていると――


「お願い、捕まえて!」


 賑やかに飛び交う商人達の声の中で、叫び声にも似た声が上がった。驚いて振り返ってみれば、若い女性の荷物を奪った男が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。


「シュロさん、ひったくりです!」

「アオバ、ここにいろよ」


 そう言った直後には、すでに男の方へ駆けていた。

 おそらく、男の前に立ちはだかって行く手を遮るのだろう。けれど、その予想は見事に外れ。シュロさんは直前になり、なぜか道を譲るように脇に避けた。

 このまま逃がしてしまうつもりなのか。そう思った矢先、すれ違いざまのほんの一瞬の隙をついて、男の胸倉を掴み、一気に地面に叩きつける。それでも逃げようと起き上がろうとした男に、素早く抜いた刀が鼻先に突き付けられた。

 それはあっという間の出来事だった。息を飲むという感覚を初めて味わった気がした。


「こんなくだらないことで捕まりたいのか、お前は」

「くっ、くそっ!」

「ほら、さっさと荷物を渡せ」


 鋭い視線に射すくめられ、男は渋々荷物を渡す。騒ぎを聞いて駆けつけた警邏中の黒龍隊隊員に男を引き渡し、シュロさんはひったくりに遭った娘に荷物を返した。


「ありがとうございました!」

「通りを歩く時は用心した方がいい。だが、ああいう輩が増えないよう、我々がもっと注意すべきだった。すまない」


 深々と頭を下げて謝ると、シュロさんは踵を返す。その時、わかったような気がした。

 なぜ、町娘達がシュロさんに憧れを抱くのか。嫌味っぽくて、からかうのが好きな姿しか見ていなかったから、私にはわからなかったけれど、きっと、軽々と悪党を倒してしまうあの姿に圧倒されるのだろう。


 それはあくまで、強さや凛々しさ、雄々しさという、誰かを惹きつけるための外見的要素でしかない。私はそれ以上に、シュロさんの纏う空気に圧倒されていた。

 息をするのも忘れるほどの、鋭さと威圧感。それが一瞬にして放たれた後、まるで何もなかったように、ふわりと香の煙が漂うように穏やかになる。きっと、そういう姿を目で追ううちに、心が囚われてしまうのかもしれない。


「最近はああいう連中が増えて困る」


 こちらへ戻ってきたシュロさんは、どうしたものかと腕を組んでうなった。


「もっと警邏を強化すべきか……って、何を人の顔をじろじろ見ているんだ?」


 ジッと見られていたのが気に食わなかったのか、不愉快そうに顔を顰め、私を見下ろした。


「いえ、シュロさんはやっぱり総長なんだなって、再認識させられた気がしたんです」

「小娘に好かれても嬉しくないな」


 また、いつもの不敵な半笑い。

 こういうことを言わなければ、少しくらい「素敵でした」とか「格好よかった」と言えたのに。もしかしたら、嫌味とからかいが多いのは、外面を良くしている反動なのかもしれない。


「安心して下さい。嫌味なシュロさんは好きじゃありませんので」

「わかった、わかった。さぁ、機嫌直して帰るぞ」


 軽くあしらうようにそう言うと、シュロさんは私の手を取り、自らの腕に掴まらせた。


「はぐれるなよ。アオバは軽いから、人さらいにでもあいそうだ」

「あいませんよ。それに、軽いとか重いとか関係ないと思いますけど?」

「いや、恰幅のいいヤツを軽々と運べるとは思えんが?」


 私の返事など少しも待たず、そのまま歩きだしてしまった。

 恥ずかしいやら照れくさいやらで、すぐにでも手を離したかった。ただ、その手を離すと人混みに飲まれてしまいそうなほど通りが混雑していて、結局掴まっていた方が安心して歩けた。何だか、それが妙に悔しかった。

 寄宿舎に着いたのは、午ノ刻うまのこくになった頃だった。早く飯にしようと寄宿舎へ急ぐその途中、厩舎から戻ってきたカガチさんと鉢合わせた。


「おや、やっと戻りましたか。婚約者はどちらに逃げていらっしゃったのですか?」

「貧街区で遊んでいた」

「遊んでません。嘘をつかないで下さい」


 いつもからかわれている仕返しに、シュロさんの腕を少し強めに叩いた。こういう時、いつもならすぐに嫌味が飛んでくるのに、なぜかその時は言葉が返ってこなかった。

 何気なく見上げた瞬間、妙な違和感を覚えた。シュロさんはいつものように笑ってはいるけれど、その表情が僅かに固い。何か無理をしているような……よく見ると、首筋には薄らと汗が滲んでいた。

 カガチさんもその変化には気づいたらしく、シュロさんの顔を訝しげに覗き込んだ。


「総長、顔色がよくありませんね。体調でも悪いのですか?」

「ん? そうか? 寝不足かもしれんな。そろそろいい歳だから体力が落ちたのかもしれない」


 頭をガシガシと掻きながら、自嘲気味に笑った。


「カガチ、悪いがアオバを頼む。少し風に当ってくるよ」


 シュロさんは目元を手で覆いながら、裏庭の方へ向かった。

 その足取りが心なしか覚束ないのが気になる。何かの病気ではないか。そう思いながら見つめている私を、カガチさんはなぜか微笑みながら見ていた。


「な、何ですか?」

「まるで恋をしているような眼差しですね」

「何を見たら、そういう解釈になるんですか。私はただ、大丈夫かなって心配になっただけで……」

「確かに、ちょっと気になりますね。シオンから聞いたことがあるのですが、総長は夜眠らず、明け方か昼に寝ているというのです」

「えっ? どうしてそんなことを?」

「仕事が溜まっているというわけでもないようです。理由はわかりませんが、それで体調を崩されているのかもしれませんね」


 考えてみれば、ここに来てから一度も、シュロさんが夜に眠っている姿を見たことがない。

 黒龍隊の総長という立場上、日々こなさなければならない仕事は山積みのはず。その対応に追われているのだとばかり思っていたけれど、カガチさんの話を聞く限り、理由は他にありそうだった。


「私、ちょっと様子を見てきます」

「その方がいいでしょうね。何かあったら、私にも知らせて下さい」


 カガチさんと別れ、すぐさま後を追って裏庭へ向かった。

 皇帝から使用許可を得られたといっても、裏庭はまだ雑草だらけ。目線の高さまで生い茂っていることに加え、完全に陽が落ち辺りが暗いこともあって、そこに人が居るのかどうかもわからなかった。


「シュロさん、いませんか?」


 声をかけながら、雑草を掻きわけつつ奥へ進んだ。

 ようやく金木犀が見えたその時、飛び込んできた光景に言葉を失った。地面に降り積もった金木犀の花弁の上に、身を投げるようにしてシュロさんが倒れていた。


「シュロさん! しっかりして下さいっ」


 うつ伏せになっている体を何とか仰向けに返し、横たわったシュロさんの頭を膝の上に乗せた時、さらなる異変に気づいた。シュロさんの髪が黒から銀色に、瞳が金色に変わっていったのだ。


「どうして白狼の力が……?」

「は……花を」


 荒く乱れる呼吸の合間に、シュロさんは言った。その瞳が金木犀の根元に咲く竜胆に向けられていた。

 言われるがまま竜胆を一本摘み取り、シュロさんの手に握らせた。その瞬間、竜胆はシューッと音を立て、あっという間に枯れてしまった。


「花が……!」

「アオバ、今見たことは……誰にも言うなよ」


 苦しげに息を詰まらせながら、シュロさんは体を起こした。こちらを見る黄金の瞳は、まるで威嚇をするように私を捉えている。


「このことは、皆も知らない。見せたく……ない。余計な心配は、かけたくないんだ」

「そんなこと言ってる場合じゃありませんよ。すぐに対処しないと!」


 助けられることが余程嫌なのだろうか。シュロさんは私を突き放し、逃れるように金木犀の根元に寄りかかった。

 シュロさんの身に起きた変化は普通ではない。放って置けと言われて従える状況ではなかった。


「アオバ、お前は……寄宿舎に」

「戻りません。戻るなら、シュロさんも連れて行きます。言っておきますが、総長の命令でも、こればかりは聞けませんから」


 さすがに、この状態ではいつもの嫌味も言えないらしい。譲らない姿勢を示すと、シュロさんは諦めた様子で深い溜息をついた。


「……頼む。部屋、に……」

「部屋に戻ればいいんですね?」


 その問いに、シュロさんは力なく頷いた。

 肩を貸し、なんとか立ち上がらせると、人目を避けるために裏口から寄宿舎へと入った。やっとの思いで部屋まで辿り着いたとたん、シュロさんは床に座り込んでしまった。


「シュロさん、しっかりしてください! 私、何をすればいいですか?」

「傍に……い……」


 すがるように腕を掴んだ直後、シュロさんはそのまま気を失ってしまった。

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