【14】涙

 ◆◆◆◆


 雀の鳴き声が、眠りの淵から私を引き上げた。

 うっすら目を開け、部屋に射し込む銀色の朝陽を見て夜が明けたのだとわかった。

 辺りの景色を白くぼかす眩い朝の光の先に、昨夜と同じ姿勢のまま机に向かって座っているシュロさんの背中が見えた。


「……シュロさん?」

「ん? おぉ、起きたか」


 シュロさんは半身だけ振り返った。本を閉じ、凝り固まった肩を解すように左肩を掴んでくるくると回した。


「もしかして、ずっと起きてたんですか?」

「あぁ、まぁな。いつものことだ。時間が経つのは早いものだな」


 シュロさんは大きなあくびを一つして、机の隅に置いてあった煙管に火をつけた。

 まさか私が寝台を使ったからだろうか。理由はどうであれ、シュロさんが眠らずに机に向かって夜を明かしたことには変わりない。いつまでも寝台にいるのが申し訳なくて、慌てて寝台から飛び起きた。


「気持ちよさそうに眠ってたな。途中で悪戯してやろうと思ったくらいだ」

「い、悪戯って。子供じゃないんですから。それより、シュロさんが眠れなかったって知っていたら、寝台も使わなかったのに……」

「いや、俺は普段から寝台は使わない主義なんでね」


 そう言って振り向いたシュロさん顔を見てハッとした。寝台の淵に座っていた私は素早く立ち上がり、バタバタと駆け寄ってシュロさんの頬を両手で挟むように掴んだ。


「痛っ! おい、急に何をするんだっ」

「目の下、隈出来てるじゃないですかっ。目も充血してます!」

「クマ? それなら、いつものことだから気にするな」

「いつもなら余計に駄目です!」


 いつもということは、普段から寝台を使わずに寝ていることになる。寝ないで夜を明かすことが日常茶飯事とは、どれだけ不健康な総長なのだろう。そんな状態では、いざという時に動けなくなることをわかっていない。


「隊の薬香を備蓄する前に、シュロさん専用の薬香を調合する方が先かもしれませんね」

「俺の? だったら、あの香がいい」

「あの香?」


 訊ねるも名前が出てこないらしく、何度も「あれ」とか「ほら」と、私の顔を指差してじれったそうにしていた。


「昨日、夜叉の件で外へ向かう前に、露店通りで焚いたあの香だ」

「蛍香ですか?」

「そう、それだ! 言うのを忘れていたんだが、あれ、効いたぞ。切りかかってきた夜叉の目から殺気が消えたように感じたんだ。効力もそうだが、あの香りは好きだ。気分が落ち着く。あれは何の香りなんだ?」

「花梨ですよ。気に入っていただけたなら、あの香りで薬香を調合しますね」

「それは楽しみだな」


 嬉しそうに立ち上がった瞬間、その表情からふと笑顔が消え、よろけて机に手をついた。


「シュロさん、大丈夫ですかっ」

「あぁ……大丈夫だ。ちょっと外の空気を吸ってくる。寝不足がたたっているんだろう」

「シュロさんっ」

「そろそろ朝食ができているはずだ。給仕場へ行って、もらってくるといい」


 心配の眼差しを向けるも、シュロさんはそれを振り払うように部屋を出ていった。大丈夫だと笑っていたけれど、顔色はあきらかに青ざめていたし、目の焦点もどこか定まっていないようだった。不安が拭い切れず、私も後を追うように部屋を出た。


 すぐに廊下を出たにも関わらず、そこにシュロさんの姿はなかった。来たばかりで寄宿舎内の構造を把握していなかったせいか、行方を追ってあちこち走り回ってせいであっという間に迷子になってしまった。

 その途中、カガチさんとシオン、ヒユリさんの三人に出くわした。相変わらずヒユリさんは私を毛嫌いしているらしく、顔を合わせるなり敵意をむき出しにしていた。


「おはようございます。どちらへ行かれるのですか?」

「シュロさんに給仕場に行けと言われていたんですが、迷ってしまって」

「おや、そうでしたか。給仕場なら突き当りを左に曲がって、三番目の部屋ですよ。ところでアオバさん、総長はお部屋に?」

「いえ、先程外へ出ていかれました。私も捜して部屋を出たんですけど、迷って見失ってしまいました」

「おや、困りましたね」


 と、カガチさんは腕を組んだ。


「偽金の一件で話したいことがあったので、今から伺おうと思っていたのです。どこへ行かれたのでしょうか?」

「途中ですれ違わなかったのですか?」


 カガチさんとシオンは顔を見合わせて頷く。行き先に心当たりがないかとヒユリさんに問うと、彼女は私を横目でちらりと見るだけで、返されたのはやはり鋭い睨みだった。さすがに私も苦笑いを返すしかなかった。


「仮に知っていたとしても、お前にだけは教えない」


 そう吐き捨て、ヒユリさんは足早にその場から去った。

 教えてほしいだなんて一言も言っていないのに。これほどはっきり嫌われるのも、なかなか珍しいかもしれない。なんだか怒りを通り越して寂しくなってきた。


「私、相変わらず嫌われてるみたいですね。ヒユリさんは、どうしてあんなに敵対心を向き出しにするんでしょうか?」

「ヒユリンは、総長しか見ていない」


 シオンがボソッと呟いた。それがあまりにも囁くような声だったため、私は思わず聞き返した。


「それ、どういうことなの?」

「ヒユリンの心の中は総長でいっぱいだから」

「……あぁ、なるほどね」


 その何の変哲もない言葉が全てを物語っていた。

 毛嫌いされているのは香術師を信用していないか、本能的に馬が合わないと感じていたのだと思っていたけれど、全てはシュロさんに想いを寄せているからだった。偽りの婚約者といっても、同じ部屋で生活すること自体面白くないはず。だって、彼女は黒龍隊の剣士である前に、一人の〝女性〟なのだから。


「総長なら、多分寝てる」


 ヒユリさんの気持ちを理解して一人納得している私に、シオンがそう告げた。


「寝てる?」

「裏庭にある金木犀の木の下が総長の特等席なの。そこで寝てる」

 

 シュロさんは〝寝台は使わない主義〟と言っていたけれど、ひょっとするとそこでしか眠れないのだろうか。何にせよ、外で寝るのも疲れるだろうし、様子を見に行った方がよさそうだった。


「私、見てきますね。もしそこに居たら、カガチさんの所へ行くように伝えます」

「そうして下さると助かります。私とシオンは訓練場にいますので、よろしくお願いします」


 2人と別れ、私はさっそく寄宿舎裏に広がる裏庭へと向かった。

 建物の陰になっているせいか、そこは少し薄暗く、用途もないのか荒れ放題。雑草は伸びに伸びて、胸の高さくらいまであった。


「これだけ広いのに何もないって、勿体ないなぁ。そうだ、ここを整備して薬草を植えられないかな? 材料採取の手間も省けていいかも!」


 森へ採取をしに行くより危険も少ない上に、苗から育てれば種も採取できる。種の成分を使う香の種類も豊富にあるから、黒龍隊でも使える香が増えるに違いない。


「せっかくの場所を無駄に放置しておくよりはマシよね」


 辺りを見回していたそこへ、鼻先を掠める強い花の香りに気づいた。

 誘われるようにその香りを辿ると、雑草の中に見事に聳え立つ金木犀が一本。その太い幹に寄りかかって眠っているシュロさんを見つけた。

 音をたてないよう、そろりそろりと、一歩ずつ忍び足で歩み寄った。どうやら相当疲れていたらしく、シュロさんは気持ちよさそうにぐっすり眠っていた。


「やっぱり、眠いの我慢してたのかな? 起こすの、もう少しあとの方がいいかも」


 総長らしからぬ無防備なその姿を、もう少しだけ眺めていたいと思った、その時――シュロさんが苦しげな吐息を小さく吐いて顔をしかめた。その閉ざされた目元から一筋の涙がゆっくりと流れ落ちた。

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