「どういうつもり?」と私は言った。

 公園灯に照らされる健太の髪の毛のない頭部はいつもより目立っていた。仕立てのいいスーツにグランドセイコーの腕時計を巻いたいつものスタイルで登場した彼は「なんのこと?」と白々しく小首を傾げた。

「自分からあんな写真送っといてまだシラを切るつもりなの?」

 まるで健太は今それを思い出したかのように「ああ」と声を漏らし、にやりと歯を覗かせた。

「あんなことしてタダで済むと思ってるの?」

「えっ、タダで済まないの?」

 彼はとぼけた顔で聞き返してくる。冗談のつもりなのか。全く笑えない。

「ふざけないでよっ!」

 そういえばついさっきも全く同じように叫んでいたな、とふと思った。ただ、さっきとは違って周囲には誰の姿もない。私の声に驚く人もいなければこちらに好奇の目を向けてくる人もいない。だから私は背の高い彼との距離を詰め、目の高さにある胸ぐらを両手で掴んでなりふり構わず大声を出した。「どうしてくれるのよっ! 私は寝込みを襲われて写真撮られた可哀想な被害者なのにっ。ねえっ、あんた私に何したかわかってんの? 婚約破棄よ? ふざけないでよっ! ねえっ、どうしてくれんのよっ! 私と彼の関係を壊して一体何がしたいのよっ!」

 勢いよく唾が飛ぶ。私は叫びながら健太に唾をかけていた。どれだけ唾をかけたって足りない。いくら彼の顔が唾まみれになったって許さない。ふざけんなっ。ふざけんなっ。ふざけんなっ。ふざけんなっ──とこみ上がってくる怒りが後を絶たなかった。

 しかし、頭上の健太はまるで反省の色を見せず、しかも目の前で起こっている出来事があたかも他人事であるかのように「ふうん」と気のない相槌を打ち、それから「ヘー、結局婚約破棄されちゃったんだー」とどこか嬉しそうに笑っていた。

「なによそれ……」

 私は掴んでいた胸ぐらを離して彼を思い切り突き飛ばした。しかし彼は後ろに二、三歩下がった程度で平気な顔をしていた。私は奥歯を強く噛み締める。彼は元野球部だ。私みたいな運動不足の女が強く押したくらいで倒れるわけがないことはわかっていたが、いざ倒れない姿を目の当たりにすると癪に障った。

「まあ、そりゃそうだよね」と彼は言った。「あんな写真見せられちゃったら誰だって僕たちがヤッたと思い込むに決まってるもん」

「……は?」と私は眉をひそめる。その口ぶりが引っかかったのだ。「もしかして、ヤッてないの?」

 私の問いに健太はクスッと笑った。

「僕がレイプなんてするわけないだろう。それとももしかして君は本当にヤッてて欲しかったのかい? でもごめんね。あいにく僕はお互いが好き同士の相手でないと──」

「ふざけないでっ!」と私は彼の言葉を遮った。「あんたみたいな人間と交わるのなんてこっちから願い下げよっ!」

 その金切り声は辺りの空気を無作為に切り裂き、あちこちで反響した声の余韻がその切れ目を修復するかのようにしばらく沈黙が時間を紡いだ。やがて健太のやたらに深いため息でまた不穏な空気が流れ始める。

「そんなに怒ることかな?」

「何が言いたいの?」と言って私は彼を睨みつける。

「いや、だって僕はただ君の婚約者に写真を送っただけだろう? 別に君をレイプしたわけでもないし、暴力をふるったわけでもない。どちらかといえば僕は感謝されるべきなんだよ。だってあの日、タクシーで眠ってしまった君を僕はわざわざ家まで送ってあげたんだからね。しかもその時のタクシー代だって立て替えた。なあ、そうじゃないか? 損をしているのはむしろ僕の方なんだ。それをどうして君が怒っていられるんだよ」

 私は最初から最後まで彼が言っていたことを何一つとして理解できなかった。

「……意味わかんないんだけど」と声が漏れる。私は唖然としていた。「じゃあなに。あんたは彼にあんな写真を送りつけたことを悪いことだって思わないってわけ?」

「僕はむしろ人助けをしたつもりなんだけどなあ」と彼はすまし顔で言った。

「あれのどこが私の助けになってんのよっ。彼の関係性を壊しただけじゃないっ」と私は腹の底から健太を非難する。

 が、彼はその言葉に対して何を今更──といった具合に呆れ顔で首を振り、そして肯いた。「僕が助けてあげたのは彼の方だよ。僕は彼に君とは付き合って欲しくなかったんだ」

 なんのためにそんなことを──という疑問が脳裏によぎった瞬間、ある予感が頭の中に浮上した。やがてそれは「そうかもしれない」という疑いから「そうに違いない」という確信に変わっていく。私はそれを彼に問うた。

「……もしかしてあんた、私のこと好きなの?」

 考えてもみれば健太が私の婚約者とあれほど会いたがっていたのだって、最初から彼が婚約を破棄させようとしていたと考えれば合点がいった。行きつけの居酒屋で遭遇したのだってどこまで偶然だったのかはわからない。それにさっきだって彼は私とヤッていないと言っていたが、それはあくまで私たちが好き同士じゃなかったからに違いなかった。記憶を遡っていくたびにありとあらゆる彼との出来事は数珠繋ぎのように「彼が私のことを好きだったから」という根本的な原因に紐付かれていくような気がした。やがて点と点が交わっていくとみるみるうちにそれははっきりとした輪郭を帯びていき、それが疑いようのない真実であることを裏付けているようにも思えた。

 すると健太は突然乾いた声で笑い出した。何が可笑しいのか、彼はそのまましばらく笑い続けている。そしてその笑い声は何の前触れもなく唐突に止んだ。

「……そんなわけないじゃん」

 こちらがハッとしてしまうほどその顔には感情が一つも宿っていないような気がした。目がかち合うと私はつい息を呑んでしまった。

「何を勘違いしてるのかわからないけどさ」と彼は淡々とした声で続ける。「僕は君のことが昔から大嫌いなんだ。よく考えてもみてよ。誰が昔いじめていた人のことを好きになるんだい? 馬鹿なんじゃないの?」

「でもっ」と私はとっさに声を出していた。

 でも?

 私はすぐにその後に続く言葉を探そうとしたが結局はちょうどいい言葉が見つからず、そのまま押し黙ってしまった。何を言いたかったのかは判然としないまま、私は何故か少しだけショックを受けている自分自身に驚いていた。そしていつの間にか燃えるように顔が熱くなっていることにようやく気付く。次第に胸の奥底の方からやり場のない怒りがふつふつとこみ上げてきた。

「いじめって……あんた一体何年前のことを根に持ってんのよ」と私は吐き捨てた。「あれはもうとっくに終わってることでしょう?」

 健太はしばらく私の言葉を咀嚼するように黙り込み、ふっと笑うと穏やかな声でこう言った。

「……終わってるってなんですか?」

 その目は明らかに笑っていなかった。

 私は間髪入れずに言い返す。「言葉の通りよ。普通は十年も時間が経てばそんな些細なこと忘れて許すもんでしょう? だからとっくに時効は過ぎてんのよっ」

 公園灯に照らされていた健太の顔はみるみるうちに赤く染まっていき、いつの間にかこめかみ辺りには太い血管が浮き出ていた。

「勝手に許されたと勘違いしてるみたいだから言うけどさ」と彼は口火を切った。「誰かがいじめに終戦宣言なんかしたんだっけ? 法律か何かでいじめの時効は決められてたっけ? いや、そんなのは何も決められてもないし、まだ終わってない。だってまだ帳尻が合ってないんだもん。一方だけが嫌な思いして時間が経ったからって『はい、もう終わり』って、そんなのおかしいに決まってるよ。だから僕はその帳尻を合わせてるんだ。大人になって合わせようが、子供の時に合わせようが、そんなのは僕が決めることだよ」

「そんなの割に合わないじゃないっ!」と私は声を荒げた。「婚約破棄されたのよ? 私はあんたのせいで婚約者を失ったのよ? それがどうしてあの頃のいじめと帳尻が釣り合うと思ってんの?」

「思ってないよ。だって君はまだ婚約者を失っただけだろう? 僕なんて当時は君たちのせいで友達もできなかったし、あんな劣悪な環境じゃあ勉強もろくにできなかったし、両親は毎日のように泣いていたし、物を壊されたり盗られたりすれば家からどんどんお金は消えていった。身体的にも精神的にも相当参ってたんだよ。それを君はなかったことにする気かい? 僕は一度全部を失ったんだ。でも今の君は普通に働けてるし、仕事終わりにはビールだって好きなだけ飲めてる。むしろ君はまだまだ多くのものを失うべきなんじゃないかな。違う?」

 健太はまるで諭すような口調でそう言った。

「どうしてそういう風に考えるのよ……」

「だから帳尻を合わせてるだけなんだって」と彼は言った。「それに先に仕掛けてきたのはそっちだろう?」

「……だからって、やられたらやり返すっていうの? そんなの憎しみが憎しみを生んで負の連鎖に入っていくだけじゃないっ」

 公園の中で私の声が虚しく響いた。だが三蔵法師のような見た目をした悪魔はそれを聞き入れる気配もなく、「さっきから勘違いしないで欲しいんだけどさ」と一つため息を吐いた。「これは戦争の話でもなければ代々続いている因縁の話でもないんだ。これは僕と君との間に起こった個人的な問題で、しかも先に仕掛けてきたのは君の方で、だから僕は大人になった今、そのイコールで繋がれていた等式を成立させようとしてるだけなんだよ。つまり今回の件で君が僕に対して憎しみを抱くことが正当化されることにはならないし、僕が彼に写真を送って婚約破棄されたからって僕のことを恨む権利は君には最初からないんだ」

 その言葉に私はすかさず「でも──」と言い返そうとするが、彼はそれを先読みしていたかのように声を被せた。

「全部君が悪いんだからね?」

 重なった二人の声はあまりに不協和音で耳障りだった。

 やがて唐突に休止符が並んだように数秒間の沈黙が流れる。尻すぼみに勢いがなくなっていた私は小脇に抱えていたはずの怒りなどはとうの昔に忘れたように別のことを考えていた。そこには少しの後悔と少しの歯痒さが入り混じっていた。

「私だって本当はいじめたくていじめてたわけじゃなかった」と私は切り出した。「それはあんただって本当は分かってたでしょう? 私が恵梨香と敬子に流されて仕方なくいじめに加担してるだけだってことも、本当の私があんなことするわけないってことも、全部理解してくれてたんじゃなかったの?」

「え、なに」と健太は笑った。「もしかして僕のせいにするつもりなの?」

 私はそれにかぶりを振った。

「違うっ。でも本当なの。本当の私はいじめに加担なんてしたくなかったし、本当の私はそもそもいじめなんかするような人間じゃないの。だから二人とは違って絶対に暴力はふるわなかったし、物を盗んだり壊したりもしなかった。実際そうだったでしょう?」

「だからそれがなんなの?」

「なんなのって……」

 そんなにバッサリ切り捨てられてしまうと私もつい言葉に詰まった。その間にも健太はふんっと鼻を鳴らし、また諭すような口調で喋り始めた。

「それってさ、結局は都合の良い自分だけを摘まみ取って『本当の私』とか言ってるだけだよね? いじめって結局は『いじめた人間』と『いじめてない人間』の二つにしか分類されないんだ。それが本当の自分だとかそんなことはどうでもいい。仕方なかったなんて言い訳はもっとどうでもいい。いじめたのか、いじめてないのか。その二つの事実しか残らないんだよ。で、君はどう足掻いたって正真正銘『いじめた人間』ってことになる。そこにどんな背景があったかなんて興味はないし、知ったところで僕には関係ない。だから僕は今こうして君との帳尻を合わせている途中なんだよ」

 自分が誰かにしたことはいつか必ず自分にも返ってくる──

 いつかおばあちゃんに言われた言葉の意味を私は今更になって理解した気がした。

「……じゃあ、なんで恵梨香と敬子じゃなくて私なの?」

 この期に及んでまだ責任逃れをしようとしていたわけじゃない。二人のうちのどちらかに全責任を押し付けようとしていたわけでもない。でも、私だけがこんな目に遭うのはどうしても納得できなかった。

 ああ、と健太は気の抜けた声を漏らす。「そういえば恵梨香ちゃんと敬子ちゃんって、二人ともつい最近仕事を辞めたらしいんだけどさ」

 初耳だった。そこでようやく私は二人と全く連絡を取り合っていなかったと思い至る。ただ、こちらからは何度かメッセージを送っている。三ヶ月くらい前にも私は恵梨香へたわいもないことで連絡を入れていた。しかし、送信したメッセージには未だに既読も付いていなかったこともあり、おそらくはどちらも連絡先を変えていたのだろうと思っていた。今の今までは──

「自殺したらしいよ。なんか裸の写真が職場内で出回ったらしくてさ、それが原因で鬱になって周りからも酷いイジメを受けるようになったんだって。可哀想だよねえ」

 私はその言葉に少しだけ反応が遅れる。

「……えっ?」

「だから気を付けなねっ。明美ちゃんも」

 弾むようなその声はまるで私のことを心配してくれているかのようだったが、そうでないことくらいはその表情を見ればすぐにわかった。目が合った瞬間に全身に戦慄が走る。

 暗闇の中で一人だけ煌々と照らし出されていた健太は不気味なほどの満面の笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。

 

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帳尻合わせ(No.2) ユザ @yuza____desu

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