⑥
約束した通り私が仕事終わりに会社から徒歩三分ほどで着く公園に向かうと、公園灯の下にすでに到着していた省吾の姿を見つけた。私は彼のそばに駆け寄って声をかけた。できるだけこちらが明るく振る舞ってあげた方が彼も打ち明けやすいかもしれない──という仕事中に考え至ったその配慮が果たして彼にどれくらいの影響を及ぼしていたのかはわからない。が、とにかく目の前に立っている彼はいつになく強張った面持ちをしていた。
「どっか食べに行く?」と私は言った。「この辺に美味しい中華の店あるみたいなんだけどさ、せっかくだから行ってみない?」
省吾は何も言わずに俯いた。二人の間をすり抜ける風がやけに冷たく、その風音さえ際立ってしまうほど辺りは静寂を保っていた。そのせいでこれから彼が切り出す内容を予見している私でさえもつい緊張してしまう。
そして十秒ほど間が空いた後でようやく彼は沈黙を破った。
「なんとなく察しはついてるかもしれないけどさ」
「うん」と私は平静を装う。「どしたの?」
省吾はまたさらに十秒ほどの空白を置く。
別れてくれないか──
一瞬、私は何を言われたのかはっきりと聞き取れずに反応が遅れた。
「えっ、ごめん……今なんて言った?」
「俺と別れてほしい」
今度ははっきりと聞き取れた。しかし、私は今この場で何が起こっているのかが全く把握できなかった。ドッキリ? 何かのサプライズ? もしかしてどこかにテレビクルーでも隠れてるの? それともつまらない冗談? だとしたら全く面白くないんだけど……。
「……きゅ、急にどうしたの?」
「驚いてるのはこっちの方だよ」と省吾は言った。「言わなくてもわかってるんだろ?」
「わかんないよっ!」と私はとっさに大声を出してハッとする。でもやっぱり意味がわからなくて慌てて彼を問い詰める。「ねえ、何の冗談? 全然笑えないんだけどっ」
いきなり公園内に響き渡ったその大声に、ちょうど目の前を散歩していた男性は目を丸くしてこちらを振り向いていた。痴話喧嘩とでも思っているのだろうか。
「別に冗談のつもりで言ってるわけじゃないよ」と彼は言った。
「じゃあ何? 突然別れ話を切り出されるようなことは何もしてないじゃないっ」と私は反論した。「もしかして転勤のこと? 海外転勤が決まって私のことを海外に連れて行くのが申し訳ないから別れようとか言ってる? だったら心配しないでいいって。ちゃんとついていくし、英語だってフランス語だって中国語だってなんでも勉強するからっ」まるで決壊したダムから水が溢れ出るように次々言葉が外に押し出されていく。「ねえ、だから別れるなんて言わないでよっ。仕事だって私はいつ辞めたっていいんだし、いざとなれば実家も売り払う覚悟はできてるの。家事だってもっと頑張るし、身だしなみにももっと気を使うし、あなたのことをずっとそばで支えられるように頑張るから……ねっ?」
気付けば私は見苦しいほどに省吾に縋り付いていた。
しかし、彼はその直後に私の必死な姿を鼻で笑った。その反応についカッとしてしまう。「なんで笑ってんの? ほんとに意味わかんないんだけどっ」
いつの間にか目を腫らしていた私に省吾は一体何を思っただろう。彼は一つため息を吐いてポケットからスマホを取り出すとなにやらしばらくそれを操作し始め、やがてその画面をこちらに見せてきた。
それを目にした途端に全身から一斉に血の気が引いていく──
「今日の正午あたりにこれが送られてきたんだ」と彼は言った。「ちゃんと説明して欲しいのは俺の方だよ……」
画面に写る裸体の女は見覚えのある布団の上で仰向けに横たわり、ヘソのあたりには伸びきったコンドームが載っている。一目でそれがどういう状況なのかを汲み取れないほど私は馬鹿じゃない。とにかく私は自分の置かれている状況にも気付かず呑気に熟睡しているその女に殺意が芽生えた。
そして同時に私は画面の隅にある既視感を覚えた。おそらくは故意的に残したのだろう。
コンビニの応募券が三枚──
「今日でもう終わりにしよう。別にまだ婚姻届を提出してたわけじゃないんだ。だからお互いにバツもつかないし、最低限の恥をかくだけで済む……」
省吾はそう言っている間、全く私のことを見てくれなかった。
「じゃあ、元気でな」と言い残してその場から立ち去っていく彼の後ろ姿がみるみるうちにぼやけて映った。私は彼に何も声をかけられないままその場にしゃがみ込み、いつまでも流れ落ちる大粒の涙を一度も拭わなかった。私はスポットライトに照らされる舞台女優のように頭上から公園灯の光を浴びている。なんだか悲劇のヒロインみたいだな──という思いがふと浮かび上がると、次の瞬間には儚くも割れてしまった。不意に頭の隅で彼の顔が浮かんだのだ。
私はその直後にはスマホを取り出して彼を呼び出していた。そういえば連絡するのはこれが初めてだったっけ、と今更どっちでもいいことを考えてしまう。
ワンコール以内に電話に出た健太はまるでこちらから連絡を入れることを待ち構えていたかのようだった。
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