⑤
「おはよう」
私はその声に反応して寝返りを打った。「おはよう。早起きだね」
仕切りのない八畳の和室と隣り合わせにある台所に立っていた男はシワのないワイシャツの上からデニム地のエプロンをかけていた。彼が穿いている折り目の入った紺色のスラックスパンツは多分この前私がクリーニングに出しておいたものだ。ビニールを被せたままハンガーラックに吊るしておいたから今朝方にでもそれに気付いたのだろう。
「前から思ってたけどさ、明美のアラーム音ってなんか怖いよな」
省吾はこちらを振り返ってそう言うとやがてガスコンロの火を止めた。どうやら朝食の準備がほとんど完了したらしい。彼は食器棚から小皿を二枚抜き取り、フライパンで焼いていたウインナーと目玉焼きを菜箸で盛り付けていた。
「そうかな?」
私は布団に寝転がったままそう聞き返し、襖近くのコンセントで充電していたスマホに手を伸ばした。電源を入れると画面には『7:13』という時刻が表示され、その下には『11月10日 木曜日』と記されている。
「あんまし昨日のこと覚えてないだろ?」
省吾はダイニングテーブルに取り分けた小皿を並べながらそう言った。私はそれに「途中から記憶ない」と答えると、今度は呆れたような苦笑いをした彼に「好きなのは別にいいんだけどさ、ほどほどにしておかないといつか健太くんにも迷惑かかっちまうぞ?」とやんわり注意された。
ああ、そういえば昨日は省吾と健太と初めて三人で飲んでたんだっけ……。
昨夜の記憶が曖昧なせいで時間感覚が狂う。私は頭の中で出題された『次のア〜エを時系列順に並べ替えなさい』みたいな問いに対し、散乱していた記号の一つ一つをかき集めるところから始めて整理することにした。
「私って昨日何飲んでたんだっけ?」
そう問いかけると、お椀に白ご飯を盛っていた省吾は一瞬思い返すような間を空け、そういえば──といった具合にクスッと笑った。
「そういえば昨日は珍しく可愛い子ぶってカシオレとか飲んでたな」
「ああ。でも別に可愛い子ぶったつもりなんかないもん」と私は言い返した。「昨日はただ酔い潰れたくなかっただけよ」
「結果酔い潰れてるんだけどな」と言って省吾は鼻を鳴らした。
「意地悪言わないでよお。省吾さんだってビール勧めてきたじゃない」
私はそう言ってまたスマホに目を移すと時刻は『7:17』に進んでいた。
どうやら私は昨夜三人で飲んでいた記憶とその二日前の月曜日に健太と二人で飲んだ日の記憶が混同していたらしい。頭の整理がつくと私はようやく身体を起こした。
部屋の隅には昨夜省吾が使った来客用布団がZ字に折り畳まれて寄せられている。その上には端を合わせて四つ折りされた掛け布団が重ねられ、さらにその上には鏡餅のみかんのように枕がちょこんと載っていた。それが目に入ると相変わらず彼が几帳面な性格をしていることに感心する。私は使った布団をそのままにして脱衣場の洗面台へと向かった。
「先に食べててもいいかな?」
顔を洗っている途中で台所の方から省吾の声が聞こえてきた。私はそれに「いいよー」と答える。彼はいつも私より三十分以上も早く仕事に向かうのだ。きっと悠長に待っている暇なんてないのだろう。一緒に暮らすようになったらいってきますのキスくらいはしてくれるのかな、と妄想しながら私は濡れた顔をタオルで拭いていた。
「今日もまた残業する予定なの?」
私が台所に戻った頃にはすでに省吾は完食寸前だった。彼は咀嚼していた食べ物を飲み込んだのちに「多分ね。いまは少し忙しい時期なんだよね」と苦笑いをみせた。
「そっかそっか。じゃあ、無理だけはしないようにね」
「おうっ。終わったらすぐ連絡するから」
「……うん」と私は肯く。
この日は私たちが付き合って二年半年記念日だった。それを彼が覚えているかどうかは聞かなかった。
省吾はお椀にくっついていた米粒を一粒残さず箸でかきこみ、律儀に合掌して「ごちそうさまでした」と呟いた。使用済みの食器をシンクへ移した彼は足早に部屋の中を動き回り、さっさと身支度を済ませるとあっという間に家を出て行こうとする。ようやく席についた私はその後ろ姿を見つめながら結局キスしてくれないんだな──と息を吐き、彼が出て行った後にその物寂しい口で目の前のウインナーを咀嚼し始めた。
連絡に気付いたのは昼休みが終わって午後の打合せで使う資料に目を通している時だった。マナーモードに設定していたスマホが突如としてデスクの上で小刻みに暴れ出し、その直後に画面に省吾の名前が表示されると私は胸が弾んだ。私は仕事そっちのけでそれを手に取ってトイレに駆け込む。
「どうしたの? 珍しいね」
「ああ、ごめん。仕事中だったろ?」
「ううん。大丈夫だよ」
私はスマホを耳に当て、できるだけ声を潜めてそう言った。
「ちょっと大事な話がしたくてさ」
「大事な話?」
あまり良い予感はしなかった。
最初こそ記念日のディナーにでも誘うのかなと期待はしたが、緊張したようなその声色からはディナーなんて横文字は出てきそうになかった。その代わりにふと『転勤』の二文字が脳裏によぎった。
もちろんいつかはと覚悟していたが、いざそれを告げられる寸前になったかと思うと尻込みしてしまっている自分がいた。彼の場合、その大半が海外だったりするからだ。英語もロクにできない私が異国の地に上手く馴染んでいる未来を想像をするだけでも難しかった。
できればせめて仕事が終わってからにして欲しかったな──と私は心の中で少しだけ彼を責めた。この後の仕事が全く手につかなくなってしまうことは容易に想像がついた。
「電話越しじゃ言いづらいことだからさ、仕事終わりに明美の会社の近くにある公園で会えないかな?」と彼は言った。
「……うん。わかった」と私は返事をする。やっぱりディナーじゃないんだな、とため息が漏れそうになる。
そしてやがて通話は切られた。
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