再会したのは中学を卒業してから十年後のことだった。

 お互いに26歳を迎えた年に私と健太はどうやら行きつけの呑み屋が同じだったということが発覚し、偶然遭遇した。中学時代に三蔵法師と馬鹿にされ続けていた彼は昔と変わらず頭部には髪の毛が一本も生えていなかったが、見違えるほど垢抜けて精悍せいかんな顔つきになっていた。身につけていたスーツも見るからに上等なものだとわかったし、左手首に巻いていた腕時計もグランドセイコーのウン十万もする代物だった。そんな姿の彼が「もしかして明美ちゃん?」と声をかけてくれた時、私は一瞬彼のことを思い出せなかった。こんな好青年の友達が私にいたっけ? しかもスキンヘッドの……あっ──

 その日を境に頻繁に顔を合わせるようになった私たちは行きつけの居酒屋でばったり会えば相席するようになり、「いつ何時いつ会える?」みたいな約束をしていたわけではない。久々再会した日に念のため連絡先の交換はしておいたが、実際に彼の名前が私のスマホに表示されることは一度もなかった。

 二人はあくまで仕事終わりにふらっと店に立ち寄ると偶然遭遇することが多いだけの飲み仲間であって、休日にどこかへ遊びに行くような関係ではなかった。第一、私には飯田省吾という五つ上の婚約者がいたのだ。普段から滅多に酒を飲むことがない省吾と、酒を飲むことが唯一の趣味である私との間にどうしても生じてしまうもどかしい渇求かっきゅうを健太が満たしてくれていたというだけのことだった。

 確かに彼は見違えるほど格好良くなっていたし、人格が変わったのではないかと疑うほど社交的で聞かせてくれる話は全部面白かったし、いつも飲み過ぎて酔い潰れてしまう私に毎回ウコンドリンクを買ってきてくれる優しさがあったけど、だからって別に彼のことをそんな風に意識して見ていたなんてことは絶対にない……と思う。

「えっ、じゃあ今はもうあの弁当屋なくなっちゃったの?」

 芋焼酎の水割りで唇を湿らせながら健太は目を丸くした。私はそれに肯く。

「三年前におばあちゃんが他界したのよ」

「そうかあ。じゃあもう二度とおばあさんの唐揚げは食べられないんだね」と健太は寂しそうに言った。「大好きだったんだよなあ、あの味」

「その言葉聞いたらおばあちゃんも泣いちゃうだろうなあ」

 私はそう言ってテーブルの隅に追いやられていた枝豆に手を伸ばす。テーブル中央には店自慢のさんまの塩焼きと山芋の鉄板焼きが載っていた。

 健太は私につられるように枝豆を手に取り、「いやいや」と首を振って枝豆を皮ごと口に咥えた。やがてその親指と人差指で豆を口の中に押し出し、残った皮は隣の皿に捨てた。「さすがにそれはないでしょ。僕のことなんてきっと覚えてもないはずだよ」

 私はかぶりを振った。

「そんなことないよ。だっておばあちゃん、当時から健太のことずっと気にかけてたもの」

「嘘だあ」と健太はこちらを疑うように片眉を上げた。

「本当よ。いつも『あの子は偉い』とか『若いのにしっかりしてる』って褒めてたんだから」

 私はそう言ってビールを一口飲む。すると健太はその直後にくすっと笑い、こちらに何かを知らせるかのように自らの唇を触った。私はそれを見てようやく口元を白い泡が覆っていたことに気付き、慌てておしぼりで口の周りを拭った。

「今はあの家に一人暮らしをしているの?」

 健太の問いに私はうんと肯いた。「正確にいえば二階部分にね。一階部分は貸し出すようにしてて、今は喫茶店になってるの」

 三年前におばあちゃんががんで亡くなった後、一人取り残された私はあの家の一部を改装していた。弁当屋を営んでいた一階部分と当時から住居として使っていた二階部分を繋いでいた階段を完全に封鎖し、屋外に新しい階段を取り付けたのだ。

 大好きだったおばあちゃんの店を手放すのはそれなりに勇気のいる決断だったが、きっとおばあちゃんもまたあの場所で誰かが商いをやってくれることを望んでいたに違いない──と、そう思った。当時の記憶は私の中の監禁室に鮮明なまま閉じ込めて色褪せないよう大事に保管しておけばいい。そうすればおばあちゃんもずっと私の胸の中に居てくれるのだから。

 健太はまた枝豆に手を伸ばして話し始める。彼には以前、私に婚約者がいることを教えていた。「結婚したらその家に二人で住むつもりなの?」

「んー、まだ正直わかんないのよね」と言って私は小首を傾げた。「彼、商社マンだから明日にでも転勤の辞令を出される可能性だってゼロじゃないと思うし」

「そっかそっか……」

 彼はそう言って芋焼酎を啜る。

 すると唐突に沈黙の時間はやってきた。

 二人は示し合わせたように口を開かず、ただひたすら思いの丈をアルコールに浸すようにその時間に酔いしれている。言葉なんて今は要らない。ただぼうっと酒を飲んでいるだけで十分に心は満たされた。

 少しだけその感覚に私は懐かしさを覚えていた。なんとなく、それがおばあちゃんと一緒に暮らしていたあの頃と似ているような気がしたのだ。本当の私でいれるあの感じ──

 いつしか私は健太と同じ時間を共有することにどこかで安心感を抱いていたのかもしれない。何がその決定的な要因になっていたのかなんてハッキリとはわからない。でも、彼は会うたびに昔のことがまるでなかったかのように私と接してくれた。それはきっと当時の私が偽りの姿だったということをちゃんと理解してくれていたんじゃないか、ってそんな風に思えた。だから私はもう飾る必要のない、偽る必要のない彼との時間がたぶん嫌いじゃなかったのだ。

 いつの間にか私はビールジョッキを六杯も空けていたらしい。六杯目を店員に頼もうとした時、健太は苦笑いしながら「もうやめときなよ」と言ってきた。

「まだ酔ってないし……」

 途端に重くなり始めた瞼を持ち上げて私は言う。が、結局健太は店員にウーロン茶を一杯頼むとその場からさっさと立ち退かせた。

「ねえ、ビールは?」

「一旦この辺で休憩しといた方がいいって。まだ月曜日だぞ? 明日も普通に仕事あるんだから」

「仕事のことなんて思い出させないでよお」と私は目を細めて健太を睨みつけた。

 しかし彼はまるでそれを無視するかのように取り皿に分けた山芋の鉄板焼きを食べていた。

 私はどうにか彼の視界に入り込もうとして上下に顔を動かす。「ちょっとお、こんな真正面から無視するのってアリなんですかー?」

 またもやそれは無視されてしまう。

 すると今度は「ああ、ってかさ」と健太がふと何かを思い出したかのように呟き、あっさりと話題を逸らされた。「明後日だったよね? 省吾さんに会わせてくれるのって」

「……そうだけど」と私は無視されたことを不満に思いながらもその問いかけに易々と肯いてしまった。「第二水曜日と第四水曜日は『定時デー』っていって、定時退社しなくちゃいけないらしいのよ。もしかして何か予定でも入った?」

 健太はすかさず首を振って「違う違う」と言った。「僕はめちゃくちゃ楽しみにしてるんだよ。だって、今までいくら頼み込んでも明美ちゃんは全く省吾さんに会わせてくれようとしなかったからさ」

「だって恥ずかしいんだもん。仕方ないじゃない」

「恥ずかしがることじゃないじゃんか。婚約者なんでしょ?」

「まあ、それはそうだけどさ。まだ彼のこと誰かに紹介したことなんてないし」

 健太は「おっ」と声を漏らして目を丸くした。「じゃあ僕が初めてなんだね。なんだか嬉しいな」

「別に嬉しがるようなことじゃないって」

 なんだか身体のいたるところがむず痒い。

「お待たせしました。ウーロン茶でございます」

 店員は二人の会話を遮るようにテーブルにウーロン茶を置いた。私はそれに早速手を伸ばして直でグラスの縁に口を付け、アルコールで満ちた体内にそれを勢いよく流し込む。食道の辺りがほのかにひんやりとして心地よかった。

「そういえば二人の記念日っていつなの?」と健太は言った。省吾の話になると彼はいつも何故だか積極的になる。

「5月10日」と私は答えた。「でもさ、健太は省吾さんと会って何がしたいの?」

「別に何がしたいとかはないけどさ、ただ単純に明美ちゃんがどんな人と結婚する予定なのか見てみたいだけだよ。だってめちゃくちゃいい人なんでしょ?」

「まあ、それはそうなんだよねー」

 省吾は贔屓目なしに見ても完璧な相手だった。『高学歴、高収入、高身長』といういわゆる『三高』であるにもかかわらず『優しくて、自然体でいられて、価値観が一致する』という『YSK』も兼ね備えている。しかもかなりの二枚目ときた。私にとって彼はどこにも文句の付けようがない自慢の恋人だった。

「めちゃくちゃ幸せそうな顔してんじゃん」と健太は言った。

 いつの間にか頬が緩んでいたらしい。私はとっさに表情を引き締め、それを誤魔化すように咳払いをした。その際、チラッと一瞬だけ視界に映り込んだ健太のどこか不満げな表情は見間違いだろうか──と気になり始めると、その顔がしばらく頭の中に張り付いて離れなかった。でも結局私はその真意を確かめないまま、ベルトコンベアのように目の前を流れていく時間が誰からも触れられないそれを遠くまで押し流していく様子をただぼうっと眺めていた。

 やがて午後十時を過ぎた頃、健太の「そろそろお開きにしようか」という言葉を合図に私たちは店を出ることにした。

 しかし、席を立った途端に私は足元がおぼつかないことに危機感を抱くことになる。あ、やばいな──と思ったその瞬間にはもう脚に全く力が入らなくなっていた。私の身体はまるで軟体動物のようにうねりながら床に膝をつき、その勢いで座っていた椅子は後ろに倒れた。その音に反応した周囲のお客さんたちは一斉にこちらを振り返って「おいおい大丈夫なのかよ?」といった具合に迷惑そうな視線を私に向けていた。健太は慌てた様子でこちらに駆け寄り、私が伸ばした腕を引っ張り上げてくれた。

「ごめん。だいぶ酔っぱらっちゃったみたい」

 私がそう言うと彼は肩を貸してくれた。

「とりあえず今日は家まで送っていくよ」

 彼の声が耳元で聞こえた。

「いや、そんな申し訳ないよ」と私はかぶりを振った。

「どう見ても一人じゃ帰れないだろ」

 また彼の声が耳元で聞こえる。すると今度はその息が鼻先に吹きかかり、同時に甘ったるい匂いがした。

 彼が会計を済ませてくれている間、外で待っていた私は店の正面に植えられていた街路樹に寄りかかっていたおかげでなんとか立っていられた。私は手元に目を落として省吾に迎えに来てくれるよう連絡しようかと迷ったが、仕事終わりで疲れているかもしれないと思い直して結局は何もせずにスマホを閉じた。

 それからほどなくして会計を終えた健太が店から出てくると、こちらに駆け寄ってきた。「ごめん、お待たせ」

「ううん、会計ありがと。いくら返せばいい?」と私は言った。

「いや、今日はいいよ」

「なんでよ。返すって」

 手に提げていたバッグから財布を取り出そうとすると、健太はそれを制した。

「じゃあ、コンビニで何か奢ってよ」

「え、いやいや、いいって」と私はかぶりを振って食い下がる。

 が、健太も全く折れてくれなかった。「いや、本当に今日はいいから」

「いや、でも……」

「だからコンビニで何か奢ってよ」

「別にそれはいいけど。本当にそんなんでいいの?」

 彼はそれにうんと肯いた。

「本当に?」

「うん。しつこいって」と彼は笑った。

 そんな押し問答があってようやく私は折れる。「じゃあ、お言葉に甘えて。ごちそうさまです」

「全然いいよっ」

 健太がそう返事をすると私は街路樹に寄りかかっていた身体を起こし、また彼の肩を借りて歩き出した。

 行き先は30メートルほど先に見えるコンビニだったが、その場所までに辿り着くまでにはおよそ二分もかかってしまった。私はその道の途中で彼の革靴が汚れていたことに気付いて「バナナの皮で磨けば綺麗になるよ」と昔おばあちゃんに教わった知恵袋の一つを彼にも伝授してあげたが、彼はそれを冗談だと思ったのか「バナナの皮って……」と小馬鹿にするように笑っていた。私はその反応が少し寂しくてすぐに話を変えた。「こんなに酔っ払う予定じゃなかったんだけどなー」

「ビール六杯も飲んだらそうなるって」と健太は言った。

「もう一軒行っちゃう? 足はふらついてるけどまだまだ戦えるかも」

 そう言いながらも私の身体は疲労感を訴えるように大きな欠伸をしてしまう。今更ながらに睡魔がすぐ後ろまで迫ってきていることに気付いた。

 コンビニの店内に入ると私はすれ違いざまに他の客とぶつからないよう健太の肩にしがみつき、引き摺られるようにアイスクリームのコーナーへと直進した。普段手に取ることの少ない高価なアイスを目掛けて次々に手を伸ばし、ハーゲンダッツのカップアイスにクリスピーサンドに白くまアイスまで値札は一切見ずに買い物カゴへ放っていった。隣でその様子を見つめていた健太は「おれチョコモナカジャンボでいいんだけど」と言うが、そういうわけにもいかない。ここまで肩を貸してもらった上に呑み屋代まで払ってもらったのだ。二、三千円くらいの出費は厭わないつもりだった。

 結局、私はアイスの他にも彼の好きそうなジュースや明日の朝食用にと無理やり惣菜パンをカゴの中に入れていき、満杯のカゴを提げてレジに向かった。

「お客様。ただいま税込700円以上のご購入ごとにくじを一回引いていただくキャンペーンを実施しておりますので、今回はこの中から三枚お引きください」

 店員は会計を済ませた後にそう言って抽選箱を目の前に差し出した。

 せっかくならいいものを──と意気込んだものの、それらは全てよく知らないアニメのフィギュアの応募券に終わってしまった。どうやら今の私には運がないらしい。隣で健太もそれを見て笑っていた。

 私たちはコンビニを出て少し歩いた先でタクシーを拾い、二人して後部座席に乗り込んだ。運転手の「どちらまで?」に私が「とりあえず出してもらってもいいですか?」と答えると、バックミラー越しに運転手が不服そうな表情を垣間見せた。私は確かにそこで少しだけイラッとしたが、舌打ちをしたかどうかまでは覚えていない。というのも、そこから後のことは全く記憶がなかった。どうやらいつの間にかタクシーの中で眠っていたらしい。

 毎朝七時にセットしているアラーム音で不意に目が覚めた私はいつもの見慣れた天井の景色にホッと安堵の息を漏らしていた──

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