「ただいまー」

 私は勝手口の方から家に入り、そのまま二階へ上がった。学生鞄をダイニングテーブルに置いて今度は急いで一階に戻る。厨房にいたおばあちゃんは私に気付くと「おかえり」も言わずに「そこのキャベツ千切りしてちょうだい」と指示を出してきた。私はエプロンとバンダナを身につけて入念に手を洗うと、早速まな板の上に用意されていた半玉分のキャベツをもう半分に切り分けた。材料の下準備は小学四年生の頃からできるようになっていた。

 七年前に両親がどちらも交通事故で他界して以来、おばあちゃんは代々続いている弁当屋をほとんど一人で切り盛りしていた。おじいちゃんはというと私が物心つく前に亡くなっていたため、今はもうおばあちゃんと私しかこの家には住んでいない。

 一階で弁当屋を営み、二階が住居となっているこの家屋はおばあちゃんが高校生の頃におばあちゃんのお父さん──つまりはひいおじいちゃんが建てたらしい。おそらくは築40年とかそれくらいは経っているだろう。おばあちゃんは今年でちょうど還暦を迎えていた。

 ついこの間赤いちゃんちゃんこを着ていたおばあちゃんはまだまだこれからだと自らを奮い立たせていたが、いくらおばあちゃんでも老いに勝てるほど身体が強くないことは私も理解していた。たまに一緒に風呂に入るとあちこちに青黒い痣ができていたのが目についたし、日を追うごとに湿布の消費量は増えていた。

 定期的に通うようになっていた病院も必ず私が学校に行っている時間帯を狙って出掛けていたようだが、きっとそれは今でも私に気付かれていないと思い込んでいる。実際、私も敬子と恵梨香に誘われて授業をサボっていなければ今も知らなかっただろう。

 私はできるだけおばあちゃんに無理をさせたくなかった。だから部活動には入らなかったし、放課後に誰かと遊んだりすることもなく真っ直ぐ家に帰って店を手伝うことにしていた。おばあちゃんはいつも大丈夫だと言ってくれたが、私がそうしたいから手伝っているだけだと必死に説得すると、渋々それを受け入れてくれた。

 敬子と恵梨香にはいつも塾だと言って誤魔化していたが、それをどこまで二人が信じていたかは定かではない。ただ、私の家が代々弁当屋を営んでいたことはきっと知らなかったはずだ。なにしろ私が小学二年生の頃に両親が亡くなって以降、他の家庭との交流はほとんどなくなったのだ。毎日店を開けていたおばあちゃんに授業参観や運動会を見に来る暇なんてなかったし、保護者会にはこれまで一度も顔を出したことはなかった。そのせいで私が一時期どこかの児童養護施設に入れられているという噂が流れていたこともあったが、私は全くそれを不満に思ったことはなかった。むしろ、学校で纏っている偽りの姿をおばあちゃんにだけは見られたくなかった私にとって、それはちょうど良かったのかもしれない。私はたった一人の家族であるおばあちゃんだけはがっかりさせたくなかった。

「いらっしゃい」

 徐々におばあちゃんの声が間を置かずに店内に響くようになっていた。おそらくは会社帰りのサラリーマンや今日は手抜きご飯でいいやと開き直って惣菜をアテにしている主婦が店の前を通りかかる時間帯に差し掛かったのだろう。この日も午後六時前頃から一気に客足が増え始め、そこから一時間ほどは注文が途絶えることがなかった。

 私は材料の下準備が一通り終わると、調理済みの惣菜を次々にパック詰めしたりトレーに弁当を盛り付けたりと比較的簡単な作業を手際よくこなした。おばあちゃんはというとレジ打ちと調理を並行してさばいていたため厨房とレジの間を何度も何度も往復していたが、身体にガタがきているとは思えないほどその動きは機敏で、仕事中は見ているこちらに不安を与えるような隙を一切作らなかった。

 そして閉店間際の午後六時五十分過ぎ。私が売れ残った弁当や惣菜に30%オフのシールを貼り終えた頃にいつも彼は店に現れた。

「こんばんわ……」と控えめな声で健太は店に入ってきた。

「いらっしゃい。よく来たね」とおばあちゃんはカウンター越しの彼に言った。「今日は運良く唐揚げ弁当が売れ残ってるよ」

「そうですか。じゃあ、それを一つ下さい」

 健太がそう言って握り締めていた500円玉をトレイに置くと、おばあちゃんはビニール袋に入れた唐揚げ弁当とお釣りの150円を一緒に彼の手に渡す。私は息を潜めるようにそのやりとりを厨房の中からじっと眺めていた。が、彼は全くこちらに気付いていない様子だった。おそらくだが、おばあちゃんも彼が私のクラスメイトだということに気付いていない。商品を受け取った後も彼はしばらくおばあちゃんと何気ない会話を交わし、いつも最後には「また来ます」と言って丁寧に頭を下げ、店を出て行った。

 どうやら健太の両親はどちらも共働きで帰りが遅いらしい。おばあちゃんはこの日の閉店後に彼のことを「明美と同じくらいの子なのに毎日一人でご飯食べてるなんて偉いじゃない」と褒めていた。

 もしかすると私は気付かぬうちにその言葉に少しだけジェラシーを感じてしまっていたのかもしれない。わざわざ言う必要のなかったことを私は閉店作業しながら口にしていた。「でもね、あの子学校じゃみんなからからかわれてるのよ」

「あら、どうしてかしら?」とおばあちゃんは不思議そうに小首を傾げた。「あんなに良い子なのに」

「なんでだろうね」と私はまるでそれとは無関係であるかのように取り繕った。

 するとおばあちゃんもやがてその理由にピンときたように思い切り眉間にしわを寄せ、「もしかしてだけど、あの見た目だからかい?」と低い声で言った。無毛症の健太はハゲている。

「もしそうだとしたら相手が子供でもいただけないね」とおばあちゃんは続け、こちらを鋭い目つきで見た。きっとそこに大した意味はなかったのだろうがその視線がかち合うと私は思わず心臓を鷲掴みされたような気分になり、とっさに目を逸らしてしまった。

「どんな理由であれ人をいじめることほど人として愚かなことはないよ」

 おばあちゃんは誰に向かって言うわけでもなく、作業台の上で売り上げの計算をしながらそう言った。「それにね、自分が誰かにしたことはいつか必ず自分にも返ってくるんだから」

「そうだね……」

 私はおばあちゃんのことを裏切っているような気がして胸が痛んだ。

 もうやめよう。彼をいじめるのは今日で終わりにしよう。

 と、私は何度も心の中で繰り返しそう唱える。大好きなおばあちゃんを悲しませるくらいなら敬子や恵梨香に嫌われた方がマシだと思った──


 が、結局は次の日も私は健太の優しさに甘えてしまうのだ。

 もしかすると健太は言わないだけで気付いていたのかもしれない。毎日のように通っている弁当屋の店の奥に私がいたということを。でも彼はおばあちゃんにはそのことを告げる素振りは全く見せなかった。

 敬子や恵梨香には見せない穏やかな目を私にだけ向けてくれるのは少なからず他の二人よりも好意的な印象を抱いてくれていたという何よりの証拠だろう。私が何か言うと彼は決まってこちらを見上げて「いいよ、気にしなくて」と声には出さずに言ってくれる。そして私がそれに「ごめん」と心の中で答えると、彼はそれを汲み取ってくれたように微笑んでくれた。

 きっとその時から私と彼との間には不思議な信頼関係が生まれていたのかもしれない。まさか大人になって酒を酌み交わす仲になっているとはこの時は全く想像もつかなかった。

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