「おいこら三蔵法師さんぞうほうしっ。あんまチラチラこっち見てくんじゃねえよ。気持ち悪いだろっ」

 最初から最後まで大和撫子には相応しくない汚い言葉遣いだった。クラスメイトの敬子けいこはそんな暴言を平気で吐くことのできる女子中学生なのだ。

 次の授業が移動教室だったこともあって人の数は徐々に減っていた教室の中で、彼女は暢気にクラスの誰と誰が付き合ってるんじゃないかと予想しながら黒板へ次々に相合傘を書き込んでいた。その途中に窓際の席から視線を感じたらしい。

「……別に見てませんけど」

 三蔵法師こと浜本健太はうつむき気味にそう答え、机の横に提げていた学生鞄の中を右手で漁っていた。敬子はすぐさま教壇から下りて彼の席に近寄った。私たちもその後ろに続く。

 おそらく健太は次の授業で使う理科の教科書を探しているのだろう。理科を担当している学年主任の先生は忘れ物をしただけでも鼓膜が破れるかと思うくらいに怒鳴り散らすことで有名だった。みるみるうちに彼の顔に焦りが浮かび上がってきてしまうのも無理はない。

 が、私は健太の学生鞄の中に理科の教科書がないことを最初から知っていた。今朝のホームルームが終わった後、彼がトイレに行っている隙に敬子が学生鞄から教科書を抜き取っていたのだ。きっと次の授業で彼が先生に怒られているところを見たいだけだろう。相変わらず性格が悪い女だ。

「さっきから何してんの?」と敬子が言った。「ってかさ、みてみて恵梨香えりか。コイツの焦ってる顔まじキモイよ」

「うわっ、ほんとだ」と恵梨香は言った。「しかもコイツ焦りすぎて脂汗かいてね? チョー頭テカってるんですけど」

 小学生の頃から仲が良かった恵梨香は以前まで大人しくて物腰が柔らかい性格をしていた。しかし、中学生になって敬子と行動を共にするようになってからは平気で人の悪口を言うようになった。特に敬子が嫌っている人間の悪口を。

 自分が傷つけられる立場になってしまうよりは傷つける方がマシ──

 いじめに加担する理由なんて大半はそれだ。いつの時代もこの世から戦争がなくならないのと同じように学校からいじめがなくなることは多分ない。だったらいかにその世界の中で自分たちだけでも平和に暮らせるかを考えるのが賢明なやり方だった。時には誰かと手を組んだり見て見ぬフリをしたりして、まるでこの世界が平和であるかのように振る舞う。決して手の届かない場所からしか平和主義を唱えず、間接的な支援をしただけで世界を救ったと勘違いしたりして、実際に現地へ赴いて手を差し伸べる人間は稀にしかいない。しかも、そのほとんどは周囲の目を気にしているだけのパフォーマンスに過ぎず、矛先が自分のところへ向きそうになるとあっけなく手を引く。結局、私たちはみんな口にしないだけで本心では自分のことだけを可愛がっているのだ。だからいじめはなくならない。だいたい、大人ができないことが子供にできるわけがなかった。

「ほんとだねー」

 私はその場の空気を壊さないように同調した。

「やっぱ明美もこの頭超キモいって思うでしょ? この歳でもうハゲてるなんてマジありえないよね」

 恵梨香はどこか嬉しそうにそう言った。

 おそらくはこのいじめに私が加担したことに安堵したのだろう。みんなで渡れば怖くない赤信号も単独で渡るとなると心細い。敬子が隣を歩いているとはいえ、彼女の場合は自ら進んで赤信号を渡ろうとしていたのだ。きっと恵梨香は心の奥底でそんな敬子とは同類にされたくないと思っていたに違いなかった。

 ただ、私は二人に対してそれと同じことを思っていた。あんたたちと一緒にしないでよ──と。私はあんたたちみたいに無毛症の彼に向かってハゲだとか三蔵法師だとか言ったことはないし、もちろん暴力を振るったこともないし、靴や教科書を盗んだこともないし、上履きに落書きをしたこともない。

 いじめる動機に同情の余地はあれど、恵梨香も私からすれば敬子と同じようなものだった。私はそんな彼女らのことを心の底から軽蔑していた。

 それに、本当の私はこんなんじゃない──

 きっと健太も薄々そのことには気付いていた。彼は敬子や恵梨香に何か悪口を言われるとすぐ逃げるように私の方を見るのだ。そして毎回、彼は声にこそ出さないがその瞳で「大変だね、そっちも」と同情してくれるのだ。その目は二人に向けていた好戦的な目とは明らかに違っていた。だから私も「そうなの。こっちも案外面倒なのよ」と目で答え、仕方なく「キモい」と機械的に口を動かしていた。

 やがて頭上でチャイムが鳴り響く。

 健太はその音に慌てた様子で席を立ち、廊下に出て行こうとした。その手には筆箱のみが握られていた。本当の私ならきっと彼に理科の教科書が教室後ろの掃除用具入れに隠されていることを教えていただろう。しかし、そうしなかったのは私の中に何もかもを閉じ込めてしまう監禁室が存在したからに他ならない。それは感情やら記憶やら人格やらを全て閉じ込めることのできる使い勝手のいい部屋だった。その部屋の内側には鍵穴がなく、外からのみ施錠することができる。だから基本的にはこちらからその部屋へ赴いて扉を解錠しない限り、嫌な記憶を思い出すことはないし、本当の自分が姿を見せることもなかった。

 偽りの私は廊下へ出て行く健太の背中を見つめていてふと思った。本当の私ならきっと彼のようにチャイムが鳴ったと同時に理科室へ走ってるだろうな。そして敬子はおそらくそんな生真面目でババくさい本当の私の姿を嫌うに決まっているだろうな、と。

 なんたって本当の私は毎月もらえる500円のお小遣いをそのまま貯金箱に入れるような人間で、買い物はいつもおばあちゃんと一緒でないと行けなかったし、頭痛がすると決まっておばあちゃんの言いつけ通りにこめかみに梅干しを貼っているのだから。いじめっ子とおばあちゃんっ子はおそらく対極にある存在で、きっと敬子は何の医学的根拠もないおばあちゃんの知恵袋を馬鹿馬鹿しいと思うに違いなかった。そしてきっと恵梨香も彼女の後ろから冷めた目でこちらを見るのだ。

 それらはあくまで私の勝手な妄想に過ぎないのだが、実際にそうなってしまいそうで私は毎回家を出る前に私の中にある監禁室が施錠されているかどうかを入念に確認し、偽りの姿で登校していた。

「うちらもそろそろ行かないとあのハゲが怒られてるとこ見逃しちゃうよ」

 まるで映画の冒頭を見逃すわけにはいかないという風に駆け出した敬子の後ろを恵梨香は「待ってよ」と言いながら追いかけ、私は黙ってその後をついていった。

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