第16話

 女は恐る恐る部屋の扉を開けた。もう手押し車は見えなかった。部屋のどこかに隠れているのではないかと顔を左右に振ると、アクリル絵具による芥子の作品が目に入った。あんな絵をしていたかと疑い、考えるのをすぐにやめた。どうせ覚えていない。物の少なく限られた部屋は一目で異物を発見できるのだが、ベッドの下は屈まないとわからなかった。部屋の中央には踏み込まずに、しゃがみ、覗くと、埃の溜まった屑がいくつも見えた。息を吐いてすぐに窓へ駆け寄ると、不和でしかない南京錠はなく、縦に回転させる普遍の錠がついていた。急に喜びが湧き出したところで鍵を開け、窓を横にスライドさせると、力をほとんど入れることなく滑り出し、風が待っていたように入り込んでカーテンを膨らませた。逃げ道を確保した実感を手に掴んで女は声を小さくあげ、窓を開けたままにした。先刻のわけのわからない物はまだ近くにいるかもしれないので、目よりも耳に意識を置いて外の気配を探ると、聞いたことのない小鳥の声がたくさん頭に入ってきた。明瞭な意志を持つ澄んださえずりを聴くようで、初めて小鳥の声という言葉の意味を知るように、窓際に立ったまま風とカーテンを受け、手押し車の気配を察知するよう感官を働かせながら鳥の愉快なおしゃべりを耳にした。人のいない独り身が募り、都会の暮らしで頻繁に襲われる寂寥感に包まれると、外の世界に者が居る孤立と異なり、誰もいない孤独は陽射しがやけに暖かく、体の内を走る悪寒と同時に皮相の熱さを感じるようだった。女は咄嗟に帰りたくなった。そしてすぐに自動ピアノを聴きに来たのだと自覚して、てんで帰るつもりはなかったが、心の置き場所の乖離を見た。中年女はいつ戻ってくるのか知らないが、昼までまだ時間もあったので、とにかく動けるようにシャワーを浴びることに決め、窓を強く閉めた。

 清潔な脱衣場と浴室は湿気がなく、探したくもない中年女の毛は一本もないことを確認した。ただし窓は南京錠に閉まっている。換気扇は回るから、逃げようと思えばここを候補にするだろうか。まさか蛇ではあるまいし。シャワーを顔に浴びると苦しい笑いが三回唸った。なんとなく水からは潮気が匂い、安定した温度に潤いが体に戻っていくと、目をつぶった画面の中で自意識の世界は高潮していった。全身を濯ぐことはどんなに疲れていても夜に行っていたので、洗顔とは異なる一日の大きな区切りを朝に迎え、室内灯だけでなく外からの光も混ざった明るさに自分の皮膚が濡れるのを見ると、若さが消えていることに気づかされる。成長点に向かうまでは外光を欲しいままに命は照らされていて、恥じる点はいくつも体にあったが、今は表面のすべてに恥晒しのような皺が増えている。中年女のようになるのだろうか。一人身の生活よりも太陽と潮風に曝された乾きと赤黒さがあった。あんな皮膚だから地酒なんて物を欲して染み込ませるのだろう。女は乳房のまわりに無我夢中で手を滑らした。それでも生き返る。誰にも覗かれない場所だからこそ裸は意味があり、慰めにならない虚しさを感じたとしても体は生き返る気がする。髪をかきあげて目を開くと、光がさらに膨らんで浴室を湯気と一緒に霞ませていた。窓は曇り、つと、誰かに見られているような気がした。若干高い窓は陽光だけを透かしていて、仮に誰かがいるのなら不気味にぼやけた色とシルエットを不確かな怖さに見せるだろう。つぶった目にシャワーを浴びると、小さい頃の頭を洗う怖さが思い出された。いつから怖くなくなったのだろうか。きっとそれと同じ事なのだろう。

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