第14話
女はぎょっと叫んだ。犬の気配で窓に近づいていたのは手押し車だった。大物の登場に一陣の風が吹いたように、レースのカーテンは女の驚きに反応してかすかに揺れた。女はしかめ面を浮かべつつ黒いヘアゴムを両手で握りしめ、物体の正体を確かめようとカーテンに透ける輪郭を見ながら、おそるおそる後ずさりした。赤銅色の前輪がまばゆく光り、小さい頃に隣の家が鎖を繋いで外に飼っていた白い犬の陰茎の先が女の頭に一瞬去来した。口を大きく開けて驚愕した。窓に対して正面に構える手押し車はよくわからない形をしていて、ざらついた彫像のように横から見るとシルエットは人間らしく見えるが、前から眺めると枯れ枝のような頼りない物のごとく映っていた。手押し車は停止したまま窓の中を覗くようだ。女は恐怖に囲まれ、落ち着かせるべく冷静を言葉に何度も頭に説きながらさらに後ずさりして、左手にヘアゴムを持ちながら扉のドアノブに右手をかけた。その間に尋常ではない目の神経を窓の奥に集中させ、手押し車の細長いフォルムを中心に人の気配を探し続けた。あまりに陽に焼けた男性の体のような赤褐色の線と木材の箱型を確認できたが、手押し車とはわからなかった。何かよくわからないが外の物は視線を持っているらしく、人の姿が見えなかったからこそ、物体の背後に隠れていると判断をつけた。瞬間に女は扉を開けて廊下へ出た。
もしかしたら中年女は家に残っているかもしれない。もちろんいなかった。仮にいるとしたらダイニングキッチンだと思った。昨晩はたしかテーブルをずいぶんと散らかしたはずだが、不自然なほど綺麗に片づいていた。生活の細細とした物はあっても特有の秩序で配置されていて、機械的な間隔よりも自然が生み出す有機的なリズムを持っていた。女は把握できなかった手押し車の存在を頭に置きながら人の気配を失った部屋を観察した。ここも窓から光が射し込んで時間は止まるようだ。水の中にいるほどではないが、外の音を遮断する密室のこもった聴覚が耳に届いていた。窓の外の物体から音は聞こえなかった。テーブルに置かれたボール紙を白眼視のまま手に取ると、朝食について何か記されていたが、読むことなくすぐに同じ場所に置いた。
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