第9話
女は返答せず、イカを噛みながら追憶を味わっていた。中年女は垂れた目ながら視線は定まっており、問いかけた事を忘れずに黙り、酒とタコを相手にちびりちびり待っていた。女は訊かれた事を忘れたかのように言葉は発さず、口の中のイカを図体の大きな草食動物のごとく噛み続けた。出てこないのを睨んで、中年女は再び自動ピアノの噂について訊ねると、女は本当に忘れていたようにはっとして、噂、噂、なんかいいって聞いたから、と適当に言った。中年女はその答えになんら関心を寄せずに聞き流すと、黙った。すると地酒を手酌してから口を開き、自動ピアノなんて昔からある手回しオルガンなのに、わざわざ遠いところからはるばるやって来るなんておかしな人ね、と言うので、女は急に笑い出し、おかしい、おかしい、そうよね、と自問自答してから相槌を打つと、先ほどまで回想されていた光景がリピートされた。でも、そんなにおかしいのかなぁ、と誰に対することなく女は問いかけると、中年女は答えず、酒だけが酌み交わされた。
どんな噂でやって来たにしろ、いささかの無言のあとに中年女が和んだ表情で口を開くと、自動ピアノは本物だし、あなたは間違いなく物物しい態度のこの島の意味を知るから、鑑賞ツアーに参加して良かったと思うことになる、と嘲笑しつつ断言したので、女はイカを噛んだ。もうすでに体験している、幻影を追う為にここに来たのだから、あれ以上の経験は訪れるはずはない。そんな風に女は思い、ほんのすこし前の疎外感とまだ知らないという劣等感は過去の記憶に染まった錯覚によって今は消されて、一人所有する個人的な関係による誇らしさが勝り、せっかく苦労して来たんだから良い演奏を聴かないと報われないと口にすると、つとに悲しさと寂しさがこみ上げてきた。影を踏みに来たのだ。あまりに眩しい存在に近づく事はもはやありえず、光輝のとうに通り過ぎた残響を確認しに来たのだ。それが例え命を持たない物による自動の演奏だとしても、似たような喜悦を得られるかも知れない。そんな思いを女が抱いている前で、中年女は喜んでいるとも悲しんでいるとも見える表情で顔を皺だらけにしていた。酒によって膨らんだのはそれぞれで、旅行者としてやってきた女は日常の責任を置いてきた者らしく頭の中に視点を照らし、ツアーの関係者として迎えた中年女は日程と相手を確かめるように見守りつつ、観察して、今後の動向について絵を広げているようだった。
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