第8話

 この中年女は知っている、先を越されたと思って悔しくなった。自動ピアノの鑑賞ツアーを企画した者達の存在など考えたことはなく、その楽器とどのような日常の接点を持っているか嫉妬も羨望も覚えたことはないが、体験した者だけが口にできる生命と実感を伝えられると、物を知らない部外者としての疎外感だけでなく、どんな情熱を持って自動ピアノへの感情を口にしたところで、本物を知らない者は何もわかっていない、決して到達したことのない偽物でしかない、そんな気分を味わわされるような気がした。

 へえぇぇ、そんなに凄いんですかぁぁ、と自動ピアノとの関係を濁すように女は追従すると、中年女は何も答えずに箸を器に入れた。酔いが寸時を怠けさせて会話は止まり、中年女が黙ったままいるので、自動ピアノへの期待を女が嘯くと、どうやってその存在を知ったのかと訊かれた。一瞬考えてすぐに、噂で聞いたからと答えると、噂、噂、そう、噂ね、と呟かれ、そうです、噂、凄い噂があって、と問答されると、関心のある物だからこそ容易に近づき難く、不用意に迫れば鑑賞ツアーが台無しになるような気がした。純粋とは言いづらい期待を持って島に来たのだから、そのままの気持ちをこの企画に携わる者に伝えて、感動を共有できればいいと思ったが、たった一人だけしか参加できないという制限が軽率な振る舞いをさせない縛りを設けるだけでなく、自由行動への質問を受け付けないという条項によって他の疑問まで止めてしまう効果を働かせていたので、女は自他を同時に騙すような社会的な振る舞いを無意識にしていた。

 すると中年女がどんな噂だったか尋ねてきた。女は考えるべく干物のイカに手をつけて、裂き、口にして噛むと、中年男性臭さが意外に味わえたので、このイカ美味しいですね、というそのままの感想を言葉にした。でしょ、たくさんあるからどんどん食べて飲んで、という中年女の姿は、どことなく魔女のような悪巧みが隠されているようで、金を払ってツアーに参加する客のこちらがどうして狭苦しい中で行動を考えて選ばなければならないのかと、はっきりした考えではなく、言葉という形にできない認識として浮かび上がるのを女は感じつつ、歯で噛み、頭は噂ではなく、存在を知った一瞬の鮮明な映像の記憶を観て、画面よりも、無尽蔵に湧いてやまない極彩色の情感が奔騰して渦巻く時間の凝縮が甦るのに任せた。物語めいた出会いと別れが本当にあるのだと初めて知った明暗の色濃い感情の花花は、たかが二日間という時間を飾るフレームの中で獣のように本能が巡り、経過によって全体の生色は薄らぎつつも、ある点をやたら盛り上げて偽りの美化を置いたり、都合のよい脚色によって時と場所の実感は変じていたが、日常外のシチュエーションの夜に醸されて、剣山の針を数えるよりも多い懐古の情操がまるで違った作品として立ち上ってきた。

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