おまけ 二人旅行・前編【一万PV記念】
何度も思い続けたことがある。幾度も思考の海に揺られながら、それについての是非を論じたことがある。
いつだって頭の中の論客は、私なんかよりもずっと正攻法な考え方を持っていて、頑なに私の考え出した可能性を生真面目に否定する。
それを論じている間だけは気分が良い。毎度論戦に負けようとも、それを論じている間だけは現実から目を背けていられる。
今回も、数日振りに論戦を論客に挑んでみる。だけど今回の論客は、頭の中ではなく、目の前にいた。
毎度の如く、私の頭に湧き上がる議題はいつも同じだ。
つまり、
「……社会に出て数学って必要ないよね?」
そんな疑問が毎度の議題だった。
「何言ってんの?姉さん」
柊は冷ややかな目を向ける。柊も私も期末テストが近いので、二人で勉強していた。当然学年は違うのでテスト範囲も違う為二人で勉強する必要性はないのだけど、柊は江月に命じられて私の監視がてらわざわざ目の前で勉強道具を広げている。
この間、柊の為にバイト代で折り畳み机を買ってあげたのに。
などと心の中で愚痴ってもみるが、私のことを想っての行動だということくらいは理解しているので口には出さない。
「いや、もう無理。全然分かんないよ」
「姉さん文系クラスなんだから数学はそんなに難しくないでしょ?」
「難しいもん」
唇を尖らせてそんなことを言ってみる。
「幼児退行したって、別に可愛くないわよ?いいから早く勉強しないと若菜姉さんが悲しむよ」
結構この幼児退行ネタ、江月にはウケがいいんだけどなぁ。
仕方なく再度机に齧り付く。何で数学に英語が出てくるんだろう。これは中学生の頃から思っていたけど。
柊の方を盗み見ると、流石の集中力だ。さっきまで私と馬鹿話していたのに十秒後には教科書の世界にどっぷりと肩まで浸かっている。
流石私の妹。各方面に自慢したいくらい優秀だ。
いや、既にバイト先には自慢したんだけどさ。
「椎本、調子はどう?」
夕方になると、バイトを終えた江月が我が家にやって来た。手には江月のバイト先の近くにあるたこ焼き屋の袋があった。
今年の初めくらいから、江月はホームセンターでのバイトを始めた。本人曰く、「園芸のスタッフ募集に惹かれた」とのことだ。何回か彼女の働いている姿を見たくて柊を伴ってホームセンターへ行ったが、エプロン姿の江月は可愛かった。
流石に三日連続で見に行ったらやんわりと来るなと言われたので最近は行ってないけど。
「もう数学、無理だよ」
教科書を投げ出して、江月に抱きつくと、笑いながら頭を撫でてくれた。
後頭部に柊の突き刺さるような視線を感じるが、一旦無視する。
「で、柊?実際は?」
しかし、勉強面に関する江月の中での私の株価は完全に下限ギリギリのようで、柊の率直な感想を江月は求めた。
「まぁ……頑張ってた、方なのかな?でも、途中で数学を投げ出して、得意な地理と歴史の勉強をしてたけどね」
「うーん、やっぱり数学はダメかぁ」
江月も何となく予想していたのだろう。特に驚くこともなければ、落胆するわけでもなかった。
「あ、これお土産ね。冷めないうちに食べてよ」
たこ焼き二パックを机の上に並べると、柊は一も二もなく飛びついた。柊は健啖家だし食いしん坊なので、ナンテンとは違った意味でついついご飯をあげたくなる。
「でさ……考えたんだけど」
たこ焼き食べるの久々だなぁ。明太マヨ味もいいけど、やっぱり最初はスタンダードかな。
私も柊のことは言えず、すっかり目の前のたこ焼きに夢中になっていると、江月が何かスマホの画面を私の目の前に出した。
「えと……なにこれ?箱根温泉……?」
画面には風光明媚な景色を堪能できる露天風呂付きの部屋が自慢の旅館だった。
「ほら、この間旅行に行きたいって話したでしょ?結局遠出するお金もないから、先延ばしになったけど。箱根なら安いしね。それに期末テストが終われば夏休みだし」
と、江月は言うが、いくら近い温泉街とは言え、部屋風呂付きの部屋なんて、一泊いくらするのどろうか。
「それで、椎本が数学で80点以上取れたら、私がお金出すからさ、一緒に行こうよ」
「若菜姉さんがついに物で釣り始めた……」
私達のやり取りを眺めていた柊は呆れるようにそんなことを言うが、私だって流石にそんな提案に乗るほど恥知らずじゃない。
「そりゃ行きたいけどさ、半分は私が出すよ。二人の旅行なんだし」
「ダメ。椎本に大学行って欲しいのは半分私の我儘なんだし、これくらいはさせてよ。それにバイトしてるのだって、椎本と色んなところ行きたいからなんだよ?」
「うーん……そこまで言われたら、江月に甘えよう、かな?でも、次は私もお金出すからね」
江月は意外と頑固だということを、進学云々でケンカになったことで知った私は、早めに折れることにした。
いや決して江月と部屋にある露天風呂に入ってるところを想像ししまった訳じゃないよ、と誰に対してか分からない言い訳をする。
我ながら単純な人間だなぁ、と辟易する。
多分、私が数学の勉強に没頭しているのを横で見ていた柊も同じことを思っていたに違いない。
数学の結果を柊に伝えると、どことなく半笑いで小馬鹿にしたような表情で、「良かったわね」と言うだけだった。
どうやら姉としての威厳は、勉学の分野以外でも地に落ちているようだ。
まぁ、椎本家でのやり取りはこんな感じで終わったが、江月は諸手を上げて喜んでくれた。さすが私の恋人、少しは柊も見習って欲しい。
◇
長くなってしまったけど、そんなわけで私と江月は箱根に向かう電車に乗っていた。
旅行なんて中学の修学旅行以来だろうか。一瞬、後ろ暗い記憶が蘇るけど、窓外の流れる景色を見ていた江月の手を握るとすぐにそんなことはどうでも良くなった。
「ん?」
突然握って来た手に、江月は微笑みを返す。
「それで着いたら何処に行くの?」
まさか宿に直行という訳でもあるまい。しかし、箱根は温泉が有名と知っているが他に何があるのかは知らなかった。
「んー、あんまり考えてなかったなぁ。でも観光地だし、適当に散歩して面白そうなところに寄ろうかなって」
——まぁ、予定が詰まっている旅よりは、散歩の延長線上のような旅の方が私は好みだ。
「まー、役には立ったかな?」
ふと、この旅行が企画された経緯を考えていたら、そんな言葉が不意に出た。
「何が?」
当然、江月にとっては意味のわからない内容なので聞き返す。
「数学がだよ」
社会に出て役立つ事はあるのかどうか、それは分からないけど。
恋人とこんな旅行に行けるのなら、私の人生においては役に立ったと言えるだろう。
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