第二十話 紡いだ言葉は ②
例えば、途轍も無く広い世界の行く末を想像したり、或いは命が消失した後の自我の在り方について想いを馳せてみたり。
そんな時、決まって漠然とした恐怖を抱く。まるで自分の命の価値や意義というものが、あまりにちっぽけ過ぎるように思えて仕方がないからなのかもしれない。
そういう恐怖に似た不安を、私は感じていた。
漠然とした恐怖とは幸福なのだろう。
同時に、そんな矛盾した考えも浮かんでいた。
椎本がいなくなったら、と考えると、そういう恐怖を抱いてしまう自分がいる。
世界そのものがなくては生きていけないし、死後に広がる無限の無が必ず訪れるのならば自我などいっそ無くなってしまえば良いのにとも思う。
私の中では、椎本は命や世界と同列なのだろう。
もしかしたら、生きてく上で世界より依存性が高くて、命なんかよりも失い難いものなのかもしれない。
でも、それを思うということは、椎本が傍に居る幸福が前提条件にある訳で。
恐怖を抱くということは、その不安を抱いている内は幸福の最中にいるということなのどろう。
寝起きの頭で、そんなことを思っていた。
隣には寒そうに毛布に包まっている椎本がいる。耐え難い程に、お互い顔が近い。
私の腕を枕にして、ゆっくりと呼吸だけを繰り返しながら夢の中にいる椎本を見ていると、思わず口元が緩みそうになるくらいに、幸福というものを実感する。
昨晩はあの後、椎本の家に泊まった。一晩中、暗闇の中で、私の罪と彼女の罰が睦み合って、痛みと苦しみを交換し合っていた。
「……ん」
椎本は少し寝返りをうった拍子に毛布から肩先が露出した。外気の冷たさに目を覚ます。
「おはよう、椎本」
「……江月?…そうか、昨日」
記憶を手繰るように今頃昨晩のことを思い出しているのだろう。赤みがさした頬を椎本は私の鎖骨辺りに近づける。
「寒いねぇ、今日は」
猫のように、私の体温を求めて身体を寄せる椎本に、柄にもなく私は頭を撫でてみた。
ヒトの形をした幸福だと思った。
形のある概念。椎本はそういう特別な存在なんじゃないかと思う。
自分でも言い過ぎだとは思うが、私というフィルターを通してみればあながち過言という訳でもないのが末恐ろしい。
「ね、反省した?」
「反省?」
起き抜けに発する単語としては、いまいちピンとこない言葉に、鸚鵡返しで訊き返した。
「勝手に私の気持ちを決めつけて、相談も無しに悩んで、一人で何処かへ行こうとしてたこと」
「……もしかして、結構怒ってた?」
一晩経って、いつもより近い距離に居る椎本は、拗ねたような声を上げる。ちなみに胸元に顔を押し付けているので表情までは分からなかった。
「折角江月のことが好きなんだ、って。それを理解できたのに。連絡が取れないからさ、色々不安にはなったよ」
「塚本あたりは何か言ってた?」
「これ以上休むと出席日数がヤバいんじゃないか、とは言ってたよ」
確かに、そろそろマズイかも知れない。テストで問題がなくても留年してしまう可能性はある。
「来年には椎本先輩って呼ばなきゃいけないかな」
「後輩はナンテンだけで十分だよ」
椎本はそう言って笑うと、意を決したように布団から出る。
室内の温度は十度を切ってそうな冷え込みだ。まだ十二月に入ったばかりだというのに、今年は厳冬になりそうだな、と寒さと闘いながらシャワーを浴びにいく椎本を見送った。
「そういえばさ」
朝の支度をして、二人でコンビニに朝食を買い出しに行って戻ってくると、すっかり昼になっていた。
女子ゴルフツアーの最終日の試合をテレビで見ながら、温かい緑茶を飲んでいると、椎本が思い出したように言う。
「チテイジンの正体って柊だったんだよね」
「……なんていうか、私の母親も椎本の父親も、なかなかにロクデナシだよねぇ」
不倫するだけならまだしも、そこで出来た子供を直ぐに施設に放り出すなんて、ろくでなしなんてものじゃない。
「ね、考えてることあるんだ」
「柊のこと?」
「うん」
「——椎本は優しいからさ、なんとなく、考えてることが分かる気がするよ」
その根拠にも理由にもなっていない言葉に、椎本は何も答えなかった。
私の是非はどうあれ、彼女は自分が正しいかどうか関係なく、そうしたいと思ったことをするのだろう。
二人してゴルフなんて知らないのに、惰性で流れ続けているツアー中継は、いつの間にか最終組の18ホールまで進んでいた。
二人何かする訳でもなく、時間を持て余しながら、それでも肩を寄せ合って寛ぐ時間は私にとっては何にも代え難い幸福そのものだった。
「明日から学校かぁ」
強いて言うならば一月近く休んでいたので少々億劫程度の理由しかないのに、そんな愚痴っぽい言葉が出たのは、意外とゴルフに熱中し始めた椎本の気を引くための呼び水のようなものだった。
「塚本とか矢嶋さんから揶揄われるかもね」
椎本は悪戯っぽく笑う。
或いは、質問責めにでもされるのだろうな。
あの二人が心配してくれていることは嬉しいけど。心配したようなメッセージも何回か受け取っているし。
それで、ふと思い出した。
「そういえば、須磨からもメッセージ来たのは意外だったな」
「……あ〜。椎本が休んだ初日に、須磨さんに告白されたからかな」
アマチュアの若いゴルファーが異例の優勝を果たしたらしく、テレビでは興奮したような実況の声と会場の歓声が響いている。
その様子を見ながら、視線を動かさず椎本は何でもないようにいう。
あまりに自然過ぎて、思わず聞き逃すところだった。
「えと、誰に?」
「私が須磨さんに」
近所のスーパーでトイレットペーパーが安く売りしていたことを報告するくらいのテンションで、椎本は言う。
須磨は中学の時から彼氏作ったり、イケイケな女子のグループにいたから、あまりそういう同性に恋をするなんて想像もつかなかった。
だが、もしかしたら椎本は異性よりも同性の心をくすぐるタイプなのかも知れない。
もちろん、断ったんだよね?と聞きたくなった。
もちろん、という部分に私の独占欲というか自意識過剰な部分が現れている。
お互いに好き、という気持ちは確認したが、思えば恋人になったのかどうか、ハッキリと確認していない。
(というよりも、恋人同士というのはどうなったらなれるのだろう)
告白してOKをもらったら?
それともお互いの気持ちが通じ合っていたら?
ううむ、よくわからない。
そんなことを考えていると、椎本が微笑を浮かべてこっちを見ていた。
「どう?嫉妬した?」
なんだか最近はずっと椎本の掌の上で踊らされているような気がする。
ムッとして、私は椎本に唇を寄せた。
そんな何でもない時間が、途方もなく幸せで、それを失う恐怖すらも、今の私達を祝福しているように感じてしまった。
私達二人の間にもはや言葉を紡ぐ必要は、無くなっていた。
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