第二十話 紡いだ言葉は ①
傷つく限り傷ついて、それでも健気に生き続ける椎本に、多分私は惹かれていた。
事情を知らずとも、そういう命の輝きが彼女の中にはあって、燻んでしまったその光を取り戻すのが私の使命だと思っていた。
でもそれは全くの勘違いで、椎本を守るどころか、一層深い傷をつけるのが私で。
きっと、罰が降ったんだと思う。いままで他人を拒否してきたくせに、今更になって誰かを好きになってしまった罰だ。
誰だって集団生活の中で起こり得る嫌なことを我慢しながら生きているのに、それを否定し続けたくせに、誰かを好きになったくらいで都合良く考えを改めた私に対する罰だ。
でも私は本当に卑怯者で。
私はそんな罰からも逃げようと、見苦しく何もかもを拒絶した。
でも、椎本は逃してくれなかった。
そこにいるのが当たり前のように、昨日の話の続きを翌日に続けるかのような自然さで。椎本がそこに居た。
「あ……、なんで、ここに…」
喉の奥がキュウキュウと鳴る。カラカラになった喉が、変な音を鳴らしていた。
「江月が出てくるまで待ってたんだよ。ほら」
そう言って、椎本は手を握る。冷たい指先が、遠慮なく私の手を冷やしていく。
椎本の眼は強かだった。なんというか、以前までの何処か儚げな瞳は、もう無かった。
大きくてクリクリした双眸が、私を捉えている。握られた手も、逃がさないと自己主張しているかのように、強い力だ。
駄目だ。
椎本に見られてしまうと、逃げられない。
私の殺した筈の好きという気持ちが、また首をもたげてそこに現れてしまう。
「聞いたよ。柊から。江月のお母さんと私の父親の話」
血の気が引くという表現を小説でよく見るが、なんとなく想像が難しかった。貧血のようなものだろうかとも思っていたが、成る程、これは血の気が引くという表現以外に表しようがないな、と思った。
すぅ、と。
うなじから下腹部にかけて、気持ちの悪い寒気が走る。
呼吸は浅くなるし、目の前が白く狭まっていく。
まさか椎本は私を弾劾に来たのだろうか。
それならそれで、私は逃げも隠れもせずに彼女の怒りと憎しみを受け入れるべきなのだろうけど。
多分きっと、私はそういうのに耐えられないだろうな。
好きだからこそ、苦しくなって。
好きだからこそ、耐えられない。
謝罪すら、きっと不相応で失言の域を出ない言葉になってしまう。
怖くて、苦しくて、悲しくて。
彼女に軽蔑されるのが、嫌われるのが、憎まれるのが。
結局はそういうことだった。それだけだった。
どんなに理由を捏ねても、根底にあるのは子供が叱られるのを怖がっておねしょを隠すのと一緒だ。
だから聞き分けの無い子供のように、目を瞑ってしまう。
「馬鹿。本当に、馬鹿だよ。江月は」
椎本の優しい声色が耳に届いた。
恐る恐る目を開けると、椎本の顔がすぐそこにあって、そっと唇を重ねていた。
「江月。好きだよ、君のことが」
それは、赦しなのか。
或いは、罰なのか。
そのどちらにせよ、江月の唇は私の何もかもを痺れさせた。
馬鹿みたいに涙が出る。呼吸が上手く出来ない。
それでも、椎本は指で涙を拭って、触れるだけのキスを幾度となく繰り返した。
「しい、もと……っ。私は——」
「駄目だよ。逃がさないから」
駄々を捏ねる子供をあやすような口調で椎本は、強く抱きしめた。
「落ち着いた?」
椎本の声に私はようやく涙が止まっていることに気づく。
椎本から少し離れると、彼女の胸元は私の涙で濡れていた。
「柊から聞いたんだよね……。なのに、なんで?」
「なんで、って?」
「私の母親が、椎本のお父さんを盗らなければ、椎本のお母さんだって今頃まだ生きていただろうし、それに、もっと今より裕福な生活ができたんだよ?なのに、なんで——っ!」
「江月に、今の私が不幸だなんて言ったことあったっけ?私は母さんと二人で暮らしてた時、幸せだったんだよ。そりゃ勿論、亡くなった後は悲しかったし辛かったけどさ。でも、その後で、江月。君に出会えた」
この一ヶ月の間、椎本にどんな心境の変化があったのだろう。そんなことを思ったが、振り返ると、椎本はいつだって人を慈しんできた。
「椎本……、なんでそんなに……」
「ん?」
椎本は首を傾げる。私の言葉の続きを促すような短い反応に、私は答えられなかった。
訊きたいことが幾つもあった。
確かめたいことが幾つもあった。
伝えたいことが、知りたいことが、見せたいことが。
でも、それを全て言葉にできるほど、私は器用じゃない。それが恨めしく思う。
でも不器用で良かったとも思える。
言葉にできない想いは、無理に言葉にしない方が、きっと椎本は分かってくれる。
私はやっぱり、椎本を愛したい。
我儘でも、自分勝手でも。
もう、椎本のいない世界は耐えられないように、作り替えられてしまった。
だから。
「江月。これから先もずっとこの世界で、私の傍に居てよ」
私の言いたかった言葉を、椎本は笑いながら紡いだ。
「うん」
馬鹿みたいに短い返事で、頷く。
頷いた後、僅かにひんやりとした感触が指の先に伝わった。
それが椎本の指が触れているのだと理解すると、指を絡ませる。
互いの熱を交換し合うように、すっかり冷え切った指の先をお互いに温め合う。
不思議と私達の間に言葉はなくなっていた。
二人、視線を交わし合って、指先だけが忙しくお互いの指を絡め合っていた。
二人無言のまま見つめ合っていたこの時間は、これまでのどんな時よりも、お互い雄弁に多くのことを語り合ったような、そんな気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます