第十八話 祈願の捨て場所


 指の隙間から砂が溢れていくように、涙が数滴溢れる。

 涙の淵には、私の罪が存在していて。

 それを拭うことすら、不出来な謝罪にも似た不作法な所作にも思えた。

 だからシーツに涙のシミを作ることに躍起になって、この部屋の自然法則はそれしか働いていないんじゃないかと思われるほどに何も無くて。

「違う。私じゃないのに、だけど」

 怨嗟の声が、ありもしない声が聞こえる。

 それに答えると、声が震える。言い訳がましい言葉ばかりが出てきて、やはり私は椎本を好きになる資格なんか無かったのだと、改めて思い知らされる。


 多分私が不良だったのならこういう時に煙草を吸うのだろう。

 多分私が大人だったのならこういう時にお酒を飲むのだろう。

 だけど、不良になる勇気も持てない卑怯者で、大人になれない程に世の中を知らない子供で、だから何も出来なかった。


「若菜。アンタ、何あったのか知らないけどさ、ご飯くらい食べなさいよ」

 姉が時折様子を伺いにくるが、流石何年も私の姉をやっているだけあって深く聞いてこない事はありがたい。

「……うん」

「頼むからこのまま引きこもりになるのはやめてよね」

「多分大丈夫」

 姉の言葉に適当な返事を返して、再びベッドの上に寝転ぶ。

 本当は大丈夫じゃないけど。

 人間、寝てしまえばなんとかなるもんだ。大抵の悩みはそうやってやり過ごしてきた私でも、椎本が関係する悩みに関してはそうもいかない。



 流石に五日ばかり休むと、椎本から多くのメッセージが届いた。風邪の調子はどうかとか、病院に行ったのかとか。

 それらを全て無視していると、流石に椎本も只の風邪ではないと悟ったらしく、今度は何があったのかとか、メッセージを無視する理由を教えて欲しいだとか、そういう内容に変わっていった。

 心が痛む。

 私はこれ以上椎本を傷つけない為に無視しているというのに、私の心は身勝手にも騒がしく痛みを訴えている。

 だけど。

 だけど本当に辛くなるのは、椎本が私のことを忘れてメッセージすら送らなくなった時だろう。

 多分、そうなることを望んでいるのに、その時を来ることを恐れている自分がいた。

 その内、塚本や矢嶋からもメッセージが来るようになった。意外だったのは、須磨からもメッセージが来たことだった。


 そうこうしているうちに、十一月も終わりに近づいていた。

 ここ一週間、椎本からは連絡が来ていない。流石にひと月も続けば、彼女も諦める他無かったのだろう。

 それは寂しくないと言えば嘘になるが、メッセージが来るたびに苦しかったので、どちらが良かったのかは分からない。

 その間私は何もしていなかった訳ではない。

 学校を休んでいるのだから勉強はそれなりにしていたし、これからどうするべきかを考えた時に、椎本と顔を合わせられない以上、親に頼み込んでどこか遠くの学校に通わせてくれるよう頼む必要もあると思った。


「それは逃避というんだよ」

 椎本の声で幻聴が聞こえる。

 自己嫌悪したい時、自己否定したい時。いつも椎本の声で再現される。

 もしかしたら彼女に罵られたいのかも知れない、もしかしたらそうやって否定して欲しいのかも知れない。

 そうすれば、二度と彼女は私のことを好きじゃなくなる。

 真実を知れば、椎本は私を憎むようになる。

 それこそが、私にとっての一番楽な道で、一番辛い選択肢だ。


 椎本と会わなくなって、一月半が経過した。

 椎本と顔を合わせるのが辛いからと言って、庭の植物を枯らせる訳にはいかない。

 今となってはあまり思い出したくない単語だけど、地底人のお姉さんとの唯一の繋がりなのだ。

 だから今は深夜にこっそり、水をあげている。

 寒くなってきて休眠に入る植物も多いが、中にはアネモネやシクラメンといった冬に開花する花もある。

 だからサボる訳にはいかなかった。

 時計の針が十一月の終わりを告げた五分後。私は庭に出て、散水用ホースを手に取った。

 元々あまり夜更かしするタイプではないので、欠伸を噛み締めながら右に左にホースを揺らす。

 カラカラという、何処か剽軽な音がした。思わず風見鶏を見上げるが風は吹いていない。

 だとするとなんの音だろうと、視線をあちこちに向けると、自転車に乗った椎本が此方を見ていた。

 表情からは何を考えているのか分からない。

 だけど、無表情という訳でもない。

 怒りのような哀しみのような。

 いや、もっと複雑な感情が篭っているような。


 自転車を止めて門扉を開けた椎本は、走る訳でもなく、ゆっくりと私に近づいてくる。

 幾度となく、会いたいと思った

 何度となく、会いたくないと思った。

 私の足は動かない。

 動こうと思っているのか、それともこの場に留まっていたいと思っているのか。

 それすら分からなかった。


 もしも、私が江月若菜じゃなかったら。

 きっと君の事を愛し続けていられた。

 もしも、君が椎本楓じゃなかったら。

 きっと私は君のそばに居続けられた。

 そういう呪いのような言葉は既に繰り返し神様に投げつけていた。

 そういう世界がないのだから、神様にいう他、やり場がなかった。

 私の祈りと願いの捨て場所は、もはや神様以外にないというのに。

 気付けば私は、まだ卑しくも彼女を望んでいた。


「今日は少し寒いね」


 椎本は言う。

 毎朝の会話を重ねるように。


 冬の木枯らしすら、私達の間には入り込む余地は無く、ただ空白の距離だけがそこにはあった。

 私の祈りと願いの捨て場所は此処だと、そう言わんばかりの状況だけが、神様の私に対する答えのような気がしてならなかった。


「ねぇ江月、私は君になら、どんなに傷つけられても平気だよ」


 ——椎本の祈りと願いは、或いは。

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