第十七話 世界を言祝ぐ ②
この世界を生きるとことに、覚悟なんて必要なかった。
泣きじゃくる増田さんを見ながら、心の枷が溶けていくのを感じた。
或いはそれを、憎む自分がいたのも確かで。
許してしまう自分が、まるで母さんのことを忘れてしまっているように感じてしまう。
だけど多分母さんはそれを笑って許してくれるだろう。寧ろ、何かの所為にして心を慰めていただけの今までの私を叱り飛ばしたかったに違いない。
それを思うと、自然と笑みが溢れる。
世界はいつだって優しかった。
それさえ分からなくなってしまったのは、きっと辛い事や悲しい事から目を背けて、未来の事を考えなかったからだ。
いつだって明日は楽しい日だ。
そんな当たり前の常識を、子供の頃に母さんから教わってきたこの心理を、私自身が忘れてしまったせいだ。
「許すよ。ううん、私は増田さんを赦したい」
「……ごめん、なさい。本当に、ごめん」
増田さんは私の言葉を聞いてもなお、謝罪の言葉を、贖罪の言葉を、繰り返す。
「それから、須磨さんもありがとう。貴女のおかげで、なんていうか、漸く思い出したよ」
「ありがとうなんて、言わないで。私は、増田が椎本さんに謝りたいって相談を受けた時、絶対に許してもらえないだろうなって、思ってたんだよ。増田はそれくらい、やってはいけないことをやってしまった」
泣き続ける増田さんの肩を抱いて、須磨さんは慰める訳でもなく、叱りつける訳でもなく、ただ肩を寄せ合っていた。
「それなのに……こうして付き合ってあげるなんて、須磨さんは優しいんだね」
「そりゃ、友達だからね。間違ったことをしたら、一緒に謝るよ」
友達をすぐ作れる人の友情とは、もっと薄っぺらなものだと思っていた。
多分、そう思わないと、友人を上手く作れない私が酷く情けなくて滑稽だからだ。
でも須磨さんは、私の想像より遥かに、すごい人だった。素直に称賛したくなるほどに、心優しい人だった。
江月が私を守ると言ってくれた言葉と同じくらい、温かくて優しい言葉だと思った。
多分、人とは本来がそういうものなのだろう。
純粋にそんなことを考えてしまうのは、きっと私の中の答えが見つかったからだ。
「ねぇ、椎元さん。覚えてるかな、梅雨頃にさ、泣いていた私を慰めてくれたよね?」
「うん、覚えてるよ」
「その時にさ、素敵な人だなって思ったの。椎本さんのこと。だから、椎本さん」
須磨さんは少し笑った。
その笑顔の意味がわからなくて、僅かに言葉が詰まる。
「——貴女のことが好きでした」
それは、ほんの少しだけ秘密を漏らすかのような、悪戯っぽい雰囲気を持つ言葉だった。
過去形の好きという言葉が、二人の間の空気を重くすることはなく、どこか愉しげな雰囲気すら漂わせている。
「え、と。ごめん、須磨さん」
「江月のこと、好きなんでしょ?マラソン大会の時に分かっちゃった。好きな人なんだもん、そういうの分かっちゃうんだよ」
本当は知りたくなかったんだけどな。
と、茶化すように言う須磨さんは、何故だろう、今までの彼女よりも数倍も魅力的に見えた。
「うん、私は江月のこと、好きなんだ。今、分かったところなんだよ」
「気付くのが遅いよ」
須磨さんは笑った。私も笑った。
「増田さんも、辛かったはずなのに、謝ってくれてありがとうね。貴女のおかげで、少しだけこの世界が好きになれた」
「……椎本さん。ごめんなさい。ありがとう」
世界が優しいのなら、私だって少しくらい優しくなれる筈だ。
だからこそ、私は増田さんを抱きしめる。
「ねぇ、私と友達になってよ」
人はお互いを知ることができれば、限りなく優しくすることができる。
それは、既に江月が実証してくれたことで、それを教わったことは、私にとっては値千金の価値にもなる考え方の一つでもあった。
「……私なんかと、友達に……?」
「うん。多分それが、一番良いんだと思う。じゃないとさ、せっかく増田さんが謝って、それを私が許したっていうのにさ、勿体無いでしょ?」
許すということは、許した側にも大きな意味があるようだ。少なくとも、私はそれを肯定する気分になっていた。
世界を言祝ぐということは、そういうことなんだろう。そこにあること全てを、そうあれかし、と肯んじることこそが世界とか社会とか、そういうものと上手く折り合いをつけて生きていくということに違いない。
私はこの世界で江月と一緒に生きてみよう。
それがどんな終端を迎えたとしても。
多分私は、世界をもう二度と恨むことはないだろう。
今すぐ江月に気持ちを伝えよう。
好きだって事、本当はとうの昔から惹かれていたって事。
それから、色々なことを話してみよう。辛かったこと、悲しかったこと、楽しかったこと、面白かったこと。
お互いに何かを差し出す関係が愛だというのなら、江月には私の人生を捧げてみよう。
最後の最後に後悔したとしても、多分それでも、世界は優しいから。きっと、悪い事にはならない筈だ。
「風邪が治ったらさ、話したいことがあるんだ。だから、早く風邪、治してね」
そんなメッセージを送る。
世界の全てが輝いで見えた。背負っていた荷物は、本当は荷物でもなんでもなかった。
それが嬉しくて、とてつもなく幸福で。
世界を言祝ぐことに、躊躇いすらなかった。
だけど。
江月から返事が来ることは無かった。
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