第十四話 短い永遠の様に ①
姉から聞いた話だと、私達の母親は、私が一歳の誕生日を迎えてから直ぐに家を出たらしい。その頃は離婚はしておらず、父が止めるのを聞かず半ば強引に別居を決めたとのことだ。一度家を出た母は、一年後に戻ってきたのだが、幼い頃の私は母が居なくなったという事実が相当堪えていたようで、家に戻ってきたからというもの母の気を引きたくていろいろなことをしていたそうだ。
手の甲を火傷したのもそれのせいで、私の一番古い記憶というのは、母の気を引きたいあまりの結果ということだ。
私が小学校に上がる頃には正式に離婚を一方的に父に押しつけて母は家を出た。それ以降は会ったことすらない。
噂では、別の所に男を作って仲睦まじく暮らしているのだとか。
椎本が見たいと言っていた映画が、ウチでサブスク登録している見放題サービスのラインナップにあったのを見かけて、朝の登校時間に誘ってみた。
二つ返事で了承してくれたのはいいが、その警戒心の薄さに、私が告白したことを忘れているんじゃ無いかと疑いたくなる。
女性同士とはいえ、好きだと告白してきた人間と二人きりになるのを、彼女はどう捉えているのだろう。
最初こそお互いにぎこちなさがあったが、今ではすっかりそれも抜けて、以前通り、いや以前よりも私達は互いの間に弛緩し切った時間が流れるようになっていた。それは決して悪いことではなく、一緒にいると落ち着くとか癒されるとか、そういう何となく一緒にいるのが自然の様な、そんな仲だ。
とはいえ、そういうことじゃ無いはずだ。私が求めていたのは、彼女に私という存在を恋愛の対象として見てもらうことだ。
お互いの友好は深まってはいるが、それは友人としての繋がりばかりが強まっているほかならない。
時間をかけるしかないのかな。
いつもその結論に落ち着いてしまう。それは、問題を先延ばしにしているような気がするが、友人同士という関係が心地よいのもまた、真実なのだからしょうがない。
「そういえばさ、アレ、植えてないんだ」
最近椎本は私の家を訪れる度に庭を散歩する。流石はかつての資産家、地元の名士の大邸宅とどこか他人事のように我が家の庭についてそう思う。江月家がそういう地位にいた頃の名残で、古庭は外から見るより思いの外広い。
中には東屋もあり、過ごしやすくなった外気の下で映画を見る前に私と椎本は、そこでお茶をすることにした。
お茶といっても来る途中にコンビニで買ったペットボトルの紅茶だが、二人でそれを飲んでいると、不意に椎本はそんな事を言い出した。
「あれ?」
「そう、秋といえばアレ。あのいい匂いのする木」
何だっけなぁ、と思い出すような仕草で腕を組む椎本。
うん、今日も椎本は可愛い。
まるで末期患者のような感想を抱きながらも、椎本のいうアレの名前には思い当たりがあった。
「金木犀?」
「そうそれ。あれの匂い好きなんだよね。こんなに種類あるのに金木犀が無いってのは驚きだな」
「言われてみれば確かに。ここに植えられてるのは殆ど、ずっと昔に植えたものだけど、確かに金木犀は昔から無かったなぁ。今度植えてみるのもいいかも」
時折り私も種を買ってきて植えることはある。それは殆ど育てるのに技術を要しないものだったり、何となくホームセンターで見つけて気紛れに買ったものだったりする。
しかし、身近に金木犀は無かったはずなのに、言われて金木犀の匂いが無性に恋しくなる。何故だか昔、その匂いを毎日のように嗅いでいたかのような、そんな気がする。
「それでさ、こないだナンテンがウチに遊びに来たんだよね」
「え?ほんと?先週会ってからすぐ?」
「そうそう。ランニングしてて私の家の近くを通ったんだよね。なんていうかさ、あの子って世話したくなる感じがあるよね。ウチに来てご飯を食べさせたよ」
相変わらず歳上を絆すのが上手な後輩だな、と思う。柔らかくなったとはいえ、椎本が家に上げるなんて珍しい。
私も最初は彼女との付き合い方に四苦八苦していた。人付き合いが苦手過ぎて、中学の頃には相手に不快な思いをさせずに、相手の方から離れさせるということを心掛けてはいたが、それを同じ部活の後輩にさせるのは躊躇われた。
とはいえ、胸の辺りはモヤモヤする。理由は考えずともわかる。
私以外の人間が、椎本の家に招かれたというのが面白くないのだ。
それを思うこと自体浅ましいとは思うが、思考する領域とは別の部分で、生の心がそういう風に感じ取ってしまう。
多分、変な笑顔を浮かべていた。
哀れな程に醜い感情を、表情筋で矯正するかのような普段使わない筋肉を使う笑顔。
それを見て、椎本は少し笑った。
笑っただけで、そのことに関して何かを言うことはなく、直ぐに話題を変えた。
——気を遣わせちゃったな。
なんて、多分私の心中などとっくにバレているのをいいことに、私は彼女の気遣いに甘えて、その次の話題に乗っかった。
椎本が観たがっていた映画は、どうやら少し古めかしいものだった。麻薬中毒の若者達を描いたもので、それに纏わる事件や裁判など、生々しい程に彼らの人生を表現していた。
椎本は、原作の小説を図書館で読んだらしく、映画があると知り観たくなったようだ。
最後は普通の人生を取り戻そうと、そんなことを思いながら歩き出す若者達の絵で終わるその映画に、私は何となしに共感を得られたような気がしなくもない。
麻薬のようなものかも知れない。と、思ってしまったのだ。
椎本という存在は、私にとって依存性の高い薬物にも似ている。
だけど、物語の主人公達と私では違うところがある。
私はもう、男の子に恋をするような普通の恋愛をしようと思わないし、多分出来ない。それどころか、女性すらも恋愛対象にならないのだろう。
椎本楓という、たった一人の人間だけが、私の恋心を生み育んでいくのだ。そういう確信めいた、青臭い結論が観賞後の私の心の中に広がっていく。
隣で見て見ている椎本は、エンドロールから目を離さない。
不意にキスをしたいと思った。椎本があまりに無防備だから、私のことを何一つとして警戒していないから。
その欲求の源は、恋とは程遠いかもしれない。
椎本が恋しくてキスをしたい訳ではなく、私のことを親友だと思い定め続けている椎本への、軽い復讐のようなものだ。
或いは、悪戯心と捉えてもいいだろう。
顔が近づく。
どこで椎本は気付くのだろう。早く気付かないと、本当に唇が触れてしまう。
私の気配に気付いた椎本は、私の方を見て、少し戯けたように笑うと、目を閉じた。
受け入れてくれるということなのか。
私は拒否されるのを前提に唇を近づけただけなのだが、椎本が許すというのなら遠慮はしない。
椎本の首に腕を回して、彼女を寄せる。
触れるだけの接吻。
唇の感触よりも、椎本の漏れる吐息の方が扇情的だった。
数秒の短いキスの後、私は思う。
——椎本は私とキスすることを拒まないというのに、まだ恋は出来ないのだと言うのなら。
それは、どこまでいけば、彼女は私に恋をしてくれるのだろうか。
去来したのは、私の意思を試すような、鈍い感覚だけだった。
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