第十三話 羊雲 ②
彼女はそう名乗った。これだけだとあまりに素っ気ない印象になるかもしれない。
しかし実際は、
「南山天梨と言います。渾名はナンテンっす。よろしくお願いします!」
——とこんな調子だ。
感嘆符の数がもう二、三個多くても良いくらいに元気一杯なもので、成る程、思わず面倒見てやりたくなるような可愛らしさがある。
何となく、後輩を可愛がる先輩の気持ちを理解する。
どうやらナンテン(彼女は上級生から渾名で呼ばれないと落ち着かないらしく、半ばそう呼ぶことを強要された)は、江月と同じバレー部らしい。
「江月先輩はクールでかっこよかったんすよ。なんていうか、後輩みんなの憧れの的?ってやつですかね」
お互い初対面通しなので自然と会話の中身は共通の知り合いである江月の話になる。
私としてもバレー部だった頃の江月を知りたいので、話題を変える理由もなくナンテンの話に対して少し食いついていたりする。
「ていうかナンテン、この時期だともう引退したんじゃないの?何でまだ練習してるのさ」
自分の話をされるのが落ち着かないといった様子で江月は無理矢理話題を変えようと試みている。
しかし、後輩に対する、なんというか歳上っぽく振る舞う江月も新鮮だ。
数回しか会ったことがないが、江月の姉に何処か口調が似ているのが少しおかしかった。
「そりゃ身体動かさないと調子出ないからですよ。勿論受験勉強もしてますよ」
「ならいいんだけどさ。ほら、もう行きな、私達マラソン大会中なんだよね」
「あ、そうだったんですね。じゃ、ここら辺で!」
立ち去る時もスッパリとしている。
一礼すると再び彼女はランニングに戻っていくが、その最中も、
「江月先輩!その内遊びに来てくださいよ、バレー部みんな待ってますよー!それから、椎本先輩も!機会があったらまたお話ししましょうね!」
と叫びながら遠ざかっていった。
そんな様子を二人で見送りながら、不思議と笑ってしまった。
「凄い元気な子だね」
「人懐っこいからね。でも椎本、気をつけなよ?あの子一度顔を覚えると、何処で会っても声掛けてくるから、ちょっとしんどいかもよ?」
かつての江月もえらく懐かれて困惑でもしたのだろう。そんな口調だった。
とはいえ、彼女の口振りはしんどいと言いつつも、どこか懐かしむ様な声色も混ざっている。
「少し前の私だったら面倒臭がってたかもね。まぁ、なんていうかさ。あの日を境に、少しだけ見える景色が変わったんだよね」
空を見上げる。
雲はほとんど無く、太陽は照っているがそこまで暑くはない。
秋晴れという言葉を想像するのなら、まさにこの空が頭に浮かぶだろうという空だ。
あの日というのは勿論、私が江月に対して依存を始めた日でもあり、江月が私に好きだと告げてくれて日のことでもある。
「景色?」
「景色っていうのは大袈裟かも。心の在り方?みたいな感じかな。だってさ、江月がいるんだよ。多分、何もかも嫌になって捨ててしまっても、最後には江月が待っていてくれる。それなら、少しくらい前向きに物事を捉えるのも良いかなぁってさ」
今までは、希望に応えられないのが怖かった。想像と違う結果になるのが辛かった。
だから、失望される前にこちらから先に失望していた。いや失望すらせずに、関わることをしてこなかった。
でも今は江月がいる。例え世界中の全員から石を投げられても、江月が肯定してくれるのなら、もう何も怖くはなかった。
だからこそ、失望されても別に構やしないという、ある種投げやりな考え方が生まれていた。
そう思うと不思議に、素知らぬ他人であっても今まで感じていた嫌悪感のようなものは薄らいでいた。
「なんていうの?ガチの人見知りからジェネリック人見知り位になった感じ」
あまり暗い話をする気もないので、そんな冗談を言ってみる。
江月は私の言葉に薄っすら微笑を浮かべると、私の手に掌を重ねた。
いつかこの手を握り返せるのなら。
早くそんな時が訪れれば良いのに。私は心の底からそう思っていた。
そんなマラソン大会の日のことを思い出していたのは、流れていたニュースが箱根駅伝の出場校を決める予選の報道をしていたからという訳ではない。
バイト先のパートのおばさんから押し付けられた——ではなく、有り難く頂いた大量の
私は素麺の薬味に
ナンテンが、その体育会系らしい短いショートボブの前髪を右に左に揺らしながら、フラフラと歩いているのが見えた。
体調でも悪いのだろうかと声をかけると、どうやら受験勉強の気晴らしにランニングをしていたら興が乗ってしまい六時間近くも走り続けていたようだ。
放っておくのも気が引けるのでウチで休憩していくように言う。ついでに素麺の消費に一役買ってもらおうとも思った。
「いいんすか?ご馳走になっちゃって」
「いいのいいの。余らせても素麺って直ぐダメになるからさ。食べて行ってよ」
じゃあご馳走になります、と勢いよく食べ始める彼女を見てから私も箸を伸ばす。
結局薬味は買えなかったが、偶には誰かと食べるのもいい薬味代わりになるものだ。
そんなことを思いながら夕飯を終えてから、ついでにナンテンの受験勉強を軽く見てやり、その後江月の中学時代の話を中心に雑談をしていたら、すっかり夜の八時近くになっていた。
流石に中学生をこんな夜遅くまで遊ばせる訳にはいかないと、そろそろ家に帰るよう促す。
「もうこんな時間ですか。それにしても椎本先輩と話すのは楽しいっす。また遊びに来ていいっすか?」
おおう、江月の言う通り結構グイグイ来る子だな。それだけ彼女の性格が万人に受け入れられるものなのだろう。多分、手酷く否定された過去がないからこその、爛漫さだ。
そして、それを汚すのを躊躇わせてしまう様な無垢さも備えている。
「私と話すのが楽しいなんて、変わってるね」
「そうですかね」
「受験勉強の気晴らしがしたくなったら連絡してよ、いつでも遊びに来ていいからさ」
私も随分と社交的になったものだ。
とはいえ、私自身の成長というよりもナンテン自身の特性が主な要因なのだろう。
素直にそれは羨ましくも思える。
流れでチャットアプリのIDを交換したタイミングで、ナンテンのスマホ画面が着信に切り替わる。
最近のスマホは着信相手の写真と名前が画面一杯に表示されるらしい。
恐らくナンテンの友人なのだろう。
白っぽい髪色をした少女の画像と共に、
「
という名前が画面上で踊っている。
ナンテンは妙なところで行儀が良かった。直ぐに着信に出ることをせずに、短く礼を述べると足早にアパートを出て路上で掛け直したようである。
私はナンテンが去った玄関を見つめて、魚の小骨が喉に引っかかったような、妙な違和の正体を探ることに躍起になっていた。
あの髪色も、柊という名前も。
何か知っているような気がするのだ。
「もし、次に自分のことを地底人だと名乗る人物が現れたら気を付けて下さい。彼女は貴方に、残酷な真実を告げてしまうから」
記憶にないそんな言葉が、幼子のような声色で、脳裏に響いたのは。
私の知らない、忘れ去ってしまった記憶が、何かを伝えようとしているのだろうか。
ナンテンの大きな笑い声だけが薄い壁越しに響く静かな室内で、私は妙な胸騒ぎを感じていた。
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