第十三話 羊雲 ①

 十月も半ばになると、本格的に秋が到来していた。あの評判の悪いブレザーも夏を超えて再度来てみると、懐かしさすら感じる。

 まだ紅月と出会う前の、初めてこのブレザーに袖を通した頃の私はまさか誰かに好きだと告白されるなんてことは考えてもいなかった。

 あれから私と江月が時間を共に過ごす頻度というのは目に見えて増えた。

 どこか、私は期待しているのかもしれない。

 私が躊躇する何もかもを全て捨ててまで江月の傍にいたいと、そう江月が私に思い知らせてくれるのを。

 江月のことは無論好きだ。

 だが、それは友人としての好きである、と私は思う。

 ではどこからか、恋と呼べるのだろうか。

 唇を重ねてからなのか、或いは肌を重ねてからなのか。

 私はどちらも望んではいないが、きっと江月がそれを望むのならば、私はそれを拒否しないのだろう。

 だからこそ、何かを愛するという気持ちが未だにピンとこないのだ。



 この学校の秋の風物詩はマラソン大会と球技大会らしい。一年おきに交互に開催しており、今年はマラソン大会だった。

 当然、ほとんどの生徒は球技大会の方が良かったと愚痴ってはいた。私も運動はあまり好きじゃないのが、どちらかと言えば私はマラソン大会の方がマシだった。

 球技大会と違って、一人で淡々と走っていれば良いのだから。

 そんな訳で全体の丁度中間辺りの順位をキープしつつ、しんどくならない程度の速度で私は走っている。


 住宅街から山の手の方まで走ってきて、目の前には日本の原風景とも言うべき田園地帯が広がっている。

 そういえばここら辺で何作ってるんだろ、と走りながら暇潰しの思考で周囲の田畑を見渡していると、不意に前方から声をかけられた。

「椎元さん」

 いつも周囲に数人の友人がいるはずの須磨さんは珍しく一人で走っている様だった。途中、彼女と一緒にいる友達の数人を抜かしたので、彼女の友人は軒並み運動神経が悪いのだろうか。

「あ、須磨さん。前の方走ってたんだね」

 私の数少ない須磨さんに関する知識では、確か彼女は部活動はやっていなかった。運動部でもないのに、先行組に混じっていたなんてなかなかやるなぁ、と呑気にそんなことを思う。

「でも少しバテちゃってね。ね、一緒に走らない?」

 いつもの私なら、断る理由を考えていたのだろうけど。

 今更拒否する理由も術も無く、私は二つ返事で了承すると、須磨さんは何故か笑顔を浮かべた。

 他人を慮る、それは私にとっては自分自身に多少の我慢を強いるということでもあるのだが、私の心の中に芽生えたそういう当たり前の心遣いという奴を少しばかり大切にしてみたいと思っているだけだ。

 だからこそ、彼女の笑みは少しだけ心に痛かった。



「あ、中学生もマラソンしてる」

 特に会話が弾むというわけでもなく、無言というわけでもなく、互いが互いに距離感を測っているかのような会話が何度か続いた後、須磨さんは思わず口を撞いて出たという様な言葉を吐き出した。

 視線を向けると確かに中学生らしき一団が走っていた。しかし、私達のようにマラソン大会をしているというわけではなく、どうやら部活動でランニングしているようだ。

 そうか、今日は土曜日だ。わざわざマラソン大会のために休日が潰れている事実を再確認して、少しだけげんなりする。

「あのジャージ、懐かしいな」

「須磨さん、あの子達と同じ中学だったの?」

 上下紺色の恐ろしく地味な指定ジャージだが、私達のジャージも似たような色なので、きっと学校指定ジャージなんてものは何処もそうなんだろう。

 しかし、高校から近い中学なのだから当たり前だが、どこかでそのジャージを見たような記憶がある。あれはどこで見たんだっけな。

「そうだよ。吉川第一中。けっこーウチの学校に進学する子多いんだよ?」

「へぇ。そうなんだ?」


 二人そんなことを話しながら走っていると、いつの間にか結構な速度を出していたらしい。前方に先にスタートしていた二組の集団がいつの間にか近くまできていた。

 数人の集団が疎らに固まっているような形だったが、それでも私は目敏く江月を見つけてしまう。

 後ろ姿から見て、江月と塚本と、あまりよく知らないが、あの二人と一緒にいるもう一人の女子の三人で走っていたようだ。

 声をかけようか迷っていると、私の存在に気づいた塚本が大きな声で私を呼んだ。

「よぉ、結構早いんだな」

「まさかもう塚本バテてるの?」

 息も絶え絶えといった調子で、塚本は青い顔でこちらを見ている。

 確かにこの小さな身体だと常人よりも多少は疲労が多いのだろうな。

 他の二人はそんな塚本に付き合っているだけの様で、疲れを見せていなかった。

「江月は結構余裕っぽいね」

 流石は元バレー部。

 言外にそんな意図を載せてみる。江月は私の方を振り返ると、笑みを浮かべた後、意外そうな表情で須磨さんの方を見た。

「須磨?なんで椎本と一緒に?」

 須磨さんは私に友達が居ないと思っていたのだろうな。僅かに呆気に取られた表情をしている。

 そうだった、あのジャージ。いつか江月の家に行った時に見たのだった。あのジャージを部屋着にしていた。

「椎本さんとはクラスメイトなんだ。それより二人が友達だったなんて知らなかったよ。えと、どういう関係?」

 どういう関係なのか、そう問われた江月の頭の中には何が浮かんでいるのだろう。

 にやにやと塚本が面白がって私たちを見ているが、なんとなく想像がつくので睨み返してみる。

 友達以上恋人未満なんていう、口にするのも恥ずかしい少女漫画によく出てくる単語をまさか言う訳にもいくまい。

 考え込んで漸く江月が放った答えは、同じ中学出身の塚本経由で仲良くなったというある意味順当なものだった。そういうシナリオが一番自然だと思う。

「ふぅん……」

 何故か腑に落ちない顔の須磨さんは、私と江月を交互に見た。

 彼女が何を考えているのかは知らないが、私としては、逆に江月と須磨さんの関係が気になる。

 恐らくは同じ中学出身なのだろうけど、どの程度まで仲が良いのか。二人の会話を眺めていると、顔見知りだが、仲が良いというわけでもなさそうだ。

 何となく合流した二つの集団は、散発的な当たり障りのない会話を数分繰り返した。きっと江月と塚本は、私の適当な相槌と返事代わりの乾いた笑いを心の中で苦笑していることだろう。

 最近は江月以外の人にもそれなりに会話をするように心掛けてきたが、須磨さんと塚本と知らない女子(つまり、まだ私にとって江月以外は会話をするだけで精神力的な何かがゴリゴリと消耗されていくのだ)相手だと、流石にそろそろ気疲れしてくる。


「あ、ちょっとトイレ」

 私はここいらでドロップアウトしようと、そんな宣言を小声にしてから集団から離れて遊歩道のベンチでサボることにした。

 女子はたったの九キロ走るだけだ。目算だと、あと数十分走れば直ぐに終わるだろう。私達よりも後に上級生達がスタートするのだから、多少サボったところで悪目立ちはしないはずだ。

 そんな言い訳をしながら、息を整えていると江月がやって来た。

 何となく、来るだろうなぁ、と思っていた。

 それは自惚でも何でもなく、どうせ一緒にいるのなら二人きりの方がいいという、私の望みそのものだったのかもしれない。

「やっぱりサボってるね」

「あはは、バレてたか」

 江月は自然に私の隣に座る。それを私も自然だと思っていた。

 それを自然だと思えることが、なぜか嬉しく感じる。

「まさか江月が須磨と仲良かったなんて知らなかったよ」

「仲が良い……って言うのかなぁ?まぁ、クラス内だと話す方だね。そっちこそ、同じ中学だったんだ」

「うん、去年同じクラス。ほら、私も須磨もそこの中学だからさ」

 と指差したのは、少し先にある校舎だった。その周りを、先程私と須磨さんが走っていた時にも見かけた中学生達が走っている。

 その内の一人が、こちらに向かって走って来ているような気がする。

 いや気がする、ではなく、こちらに向かって来ていた。


「江月先輩!お久しぶりです」


 おお、体育会系だぁ。

 と、街中で狸を見た気分と似たような感覚になりながら、礼儀正しく腰を九十度近く曲げて挨拶した中学生に対してそんなこと思った。

 随分と可愛らしい子だ。

 なんというか、誰からも可愛がられそうな、そんな人柄が顔立ちに現れているような。


「うん、久しぶりだね、ナンテン」


 江月はそう言ってから、ナンテンと呼んだ彼女に向けて、柔らかい笑みを向けていた。

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