幕間 地底人の見る夢

 ——あの人の匂いは金木犀きんもくせいだった。


 私が覚えているのはそれだけで、それ以外の真実など意味を為さないとでもいうように、私には何もなかった。

 自分自身に何も無いことを頭ごなしに否定する気にはならなかったが、私には何かあるという期待を棄てる気もなかった。

 在る程度物事を考える力が養われた今思うことは、私は彼らにとっての希望ハダリーでは無かったということだ。

 それだけの事実が物悲しい。さぞかし、私の存在を無かったことにした彼らは清々したのだろうか。

 顔も名前も知らぬ相手を勝手に想像しては、恨んで怨んで、そして最後にはいつも涙で布団を濡らした。


 ——自ら愉しむことのできない人々は、しばしば他人を恨む。


 こんな言葉を残した人は余程幸福な人間なのだろう。独善的な言葉だ、唾棄すべき言葉だ。

 私から言わせてみれば、他人を恨んでしまった限り、何かを愉しむことなど出来やしないのだ。

 だが、幸福な人間にとってはそれがスタンダードな考え方なのだろう。恨みとは、恨んでしまった方の負けであり、なぜとっとと忘れ去らないのだろうとでも思ってるのだ。

 それを考えると、世間にいる大多数の幸福な人々全てが別の生物に見えてくる。

 だから同じ人間でも、私は違う存在なのだ。

 薄暗く湿った考えを持つ私は、さしずめ地底人とでも言ったところか。

 ならば、私は昔読んだ古典SF小説に出てきた地底人のように、地上の人間を食い物にする存在にでもなってしまおうか。


 ——私一人をおいて幸福へと向かう人間など、私は赦さないし、認めない。


 世の中の誰か一人が幸福とは程遠い存在になって仕舞えば、その分私は幸福へと近づく。

 何も無い私にはそれしか出来ないし、何かあるとすれば何かを恨んだその中に一つだけあるのだろう。




 そう思って生きてきたのに。

 そう信じるしか無かったはずなのに。

 私は彼らのハダリーですら無かったというのに。最後に選んだのは、彼女達ではなく私だった。

 その半端な優しさ、若しくは心残りは、私を酷く歪ませた。歪んで歪んで、既にまともな形など保てていなかった私の心は、酷く不細工なものとなった。


 ——喪裾もすその匂いは金木犀だった。


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