第十一話 曰く、罪の話 ①
私の父は、私が七歳の頃に家を出た。妻子のいる立場にしては随分と責任感の無い男だったようで、不倫と呼ぶにはあまりにも堂々とし過ぎてはいたが、他所に出来た女と半ば駆け落ちのように姿を眩ませた。
父はその際に実家とも縁を切ったようで、そんな不甲斐ない息子を持ってしまった祖父母が私の母に対して、床に額を擦り付けるように謝り倒していたのを覚えている。
そんな二人もすぐに亡くなってしまい、私と母さんは天涯孤独の身となってしまった。
父が姿を消した際に、通帳や生活費を全て持っていったので、母さんは私を育て上げるために昼夜問わず働き詰めていた。
それでも、私は母と暮らしてきた生活を不幸せだなんで言うつもりはないし、それどころか、今にして思えばあの頃が一番私にとっては幸せな時期だったのかもしれない。
私の家が貧乏で流行りの玩具やゲームが買えなかったせいか、それとも私の生来のものなのか。それは恐らく後者なんだろうけど--昔から友達を作るのが苦手で、中学校に上がる頃には立派ないじめられっ子だった。
まぁ女子内の虐めだから、暴力的ってより陰湿なものが多かった。例えば、物を隠されたり、授業道具を鞄ごと池に投げ入れられたりとか。シカトや陰口ってのはまだ良い方だった。
それでも、私は母さんに心配かけたくなくて、毎日学校が楽しいって話していた。母さんを安心させたくて、っていうのもあったけど、本当に気にしてなかったんだよ。
私にとっては母さんが全てで、2人でいればなんでも乗り越えられる、幸福のまま生きていけるって本気で思ってた。
だけど私はやっぱり子供だった。
私一人を育てるために、母さんがどれだけ無理をしていたのかも知らなかったのだから。
「でもさ、笑ってたんだよ。いつも。私の前で弱音なんて一言もなかった。笑っていたし、私もそれにつられて楽しかった」
過去を吐露するということは、もっと辛いものだと思っていた。江月は黙って私の話を聞いてくれている。
話を進めていく中で、私は危うさを感じた。
私は、このままだと江月に依存してしまう。誰かに甘える事を、遠慮せず心の中を吐き出す事を。
その甘美を。
今まで我慢していたものが、決壊してしまう。私の弱さが止めどなく彼女に降りかかってしまう。
だがそれを、塚本は推奨したのかもしれない。
だから、溺れていくように、心の深い部分を、記憶の底を浚うように。
私は話す。
ある日母さんは倒れた。
過労と母は言っていたけど、実際は膵臓癌だった。既に発覚した時には余命は幾ばくもなかった。
私はその事実を認められなかったし、認めたくもなかった。だけど子供の私には、何も出来ることはなくて、毎日母さんの病室に行っては泣きじゃくる日々だった。
そんな時に、母さんは言った。
「あんまり泣かないの。私は楓の母親だから、楓より先に死ぬのは当たり前なの」
「嫌だ……。ダメだよ、私母さんがいないと」
「本当はね、これから楓を一人にしてしまうのは不安だけど、母さんは信じてるから」
「……何でこんな時にも、母さんは笑ってられるの?私は……」
「そんな顔をしないの、何も今からすぐ死ぬってわけじゃないんだから。あと一ヶ月はもつのよ?今からそんな顔してたら、母さんは悲しいよ。最後の最後まで、私は楓と楽しく生きていたいな」
「……うん。分かった。頑張る。だから母さん、一日でもいいから、長生きしてね」
私は母さんと約束した。泣き顔とか泣き言は母さんの前ではしないように努力した。学校が終わるとすぐに病室へ行って、面会時間が終わるまで沢山のことを話した。
その殆どは他愛のないことだったし、人生の最後の最後に交わす会話には相応しくないのかもしれなかった。
だけど、私は母さんと過ごす最後の時間を笑顔で過ごしたくて、幸せな人生だったと思ってもらいたくて。ただただ、いつも通りの会話を交わし続けた。
その内、春になって新しいクラスになって、桜が散った。
学年が変わっても私は変わらずイジメの対象だったけど、そんなことに構ってる余裕はなかった。
カバンを隠されても靴を隠されても無視し続けた私がムカつくっていう理由だけで、ある時私は体育の授業の終わりに準備室に閉じ込められた。
虐めていた連中からすると、一時間程度で出す予定だったのかもしれないけど、ドアの前で立ち塞がって意地の悪い笑みをニヤニヤ浮かべながら私に暴行を振るった彼女達の顔は今でも忘れることはできない。
最初は耐えればいいだけと思ってた。だけど、校内放送で、私の名前が呼ばれた時、私は直ぐに入院している母の病院から連絡が来たのだと直感した。
私は懇願した。出してくれ、と。母さんが危篤だから、せめて死に目には合わせてくれ、と。
なんなら明日でも明後日でも、毎日殴っても蹴ってもいいから今日だけは勘弁してくれ、と。
だけど彼女達は私の言葉を単なる言い訳としか受け取らず、私に馬乗りになって逃がさないように一時間近く拘束した。
結局、病院に着いた頃には母さんはとっくに亡くなっていたよ。
せめて最期の時は楽しく過ごそうって約束したのに。私は最後の最後に、その約束を破ってしまった。
死ぬ間際、母さんは何を思ったのだろう。私に裏切られたと思ったのだろうか。
せめて苦しまずに逝けたことを願うばかりで、後悔と憎悪が私の心をぐちゃぐちゃにしていた。
葬式やら何やらで、私は二週間学校を休んだけど、次に登校した時、クラスの様子は一変していた。
流石に自分達のイジメが原因で、親の死に目に間に合わなかったというのは、彼女達なりに罪悪感があったようで、私を虐めていたグループは誰が悪いとか誰の発案だとかそういう責任のなすりつけ合いで仲違いしていたし、私のいじめを遠巻きに見ていたクラスメイト達も、流石にやり過ぎだと思ったのか、彼女達を相当強く弾劾したそうだ。
結局、クラスは崩壊した。女子も男子もギスギスしていて、空気も悪かった。中には鬱病になって不登校になった生徒もいた。
それは卒業まで続いて、修学旅行も文化祭も体育祭も卒業式も全部、私達のクラスだけは何一つ纏まりのない、最悪な一年になった。
「私の罪は、彼女達を許せなかったこと。関係ない他の生徒の楽しい時間を奪ってしまった。もう少し歩み寄ればよかった、もう少し心を開けばよかった。でも当時の私は、虐めた奴らもそれを見るだけで何もしなかったクラスメイトも、全部嫌いで、全員死んでしまえと呪ってすらいた」
私は自嘲する。
思えば、八つ当たりにも程があると、改めて思ったのだ。
「--ねぇ、どうすれば良かったのかな」
思わず私は、あまりに純粋なまでに心の中で永らく燻っていた疑問を口にする。
果たして答えはあったのだろうか。それがベストとは言えなくでも、ベターな回答があったのではないだろうか
煩悶とする気すらなかったはずなのに、気がつくと私はその答えを求め始めている。
他人がどうなろうと知ったこっちゃないと、素知らぬふりで生きてきた私にとって、江月という存在が私にもたらしたのは、他人を
静かに聴き、ゆっくりと私を見た江月は、花弁を開く美しい華のような動作で腕を広げて私を抱きしめた。
「椎本は優しすぎるんだよ。その優しさは、自分を傷つけているのかもね」
囁く彼女の声が、即効性のある薬液か何かのように耳から流れ込んで、私の脳幹を揺さぶる。
江月の服を、私の汚い涙で汚してしまう。そんなことを思いながら、私は彼女に体重を預けた。
他人の温度が、こうも心地よいものなのだと、私は知らなかったのだ。
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