第十話 天国はもういらない

 秋の訪れを感じさせるような、少し冷たさを孕んだ風が吹き抜けた。

 地底人のお姉さんと出会ったのは、確か秋頃だったような気がする。

 遥か遠い昔の話なので、ほとんど思い出せないが、思えば一度しか会っていないのに、彼女への憧れが強いためか、印象は当時のどんな思い出よりも強かった。

 何故彼女が我が家を訪れていたのか理由は分からなかった。

 ただ彼女は庭の花々が好きで、私にとっての理想そのもので。

 それだけで十分だったのだろう。

 地底人のお姉さんのように、華やかで艶やかで慎ましく清らかであるならば--。

(私の恋なんてものは、容易く叶えられたのだろうか)

 詮無いことを考えるのは、どうやら私の癖らしい。答えは分かりきっている、だというのにこんな同じ悩みを繰り返し悩むのは、非生産的にも程がある。

 或いはそれを、くすぐったい甘美な何かと勘違いしているのかもしれない。


 雨が降り始めたようだ。

 窓外は灰色の世界を描き始めていて、さながら雨が色を落としてモノクロに染め上げていくようだ。

 白と黒は対極じゃない。

 その二つの色は非常に近しい性質をしていて、どちらも身震いする程に、無垢である。

 きっと天国があるならば、こんな風なのだろう。半端なものなど何もない、白と黒のように無垢な程に単純な物事だけが存在する世界。

 煩雑な何もかもを無くしてしまえるのならば、私にとっては天国に違いないのだ。


 昨晩、椎本から塚本の連絡先を訊かれたが、今頃あの二人はどこかで会って昔話にでも花開かせているのだろうか。

 秋の訪れを予感させる風は次第に雨を運んで窓に打ちつける強いものへと変貌していた。

 そしてその風が運んできたのは、雨だけではなかった。

 インターホンが鳴る。

 父は同僚とゴルフに朝から行っているし、姉も昨晩から帰ってきていない。

 となると応対するのは私しかいない訳で、どうせ姉がネット通販か何かで買ったものが届いたのだろうと、ヨタヨタと玄関へと向かう。扉を開けると、そこにいたのは、今にも泣き出しそうな、弱々しい椎本が立っていた。


「ごめん、急に来て」

 雨に打たれた彼女の煌びやかな黒髪は、濡れてもなお光沢を放っていた。

 それを美しくと思う自分と、彼女の泣き出しそうな表情に何かを感じとる自分の二人がいた。

 我が家を訪うのは、何も楽しい理由ではないようだ。

 だが、そうだというのに。

 彼女が私を訪ねてくれたという事実のみが、舞い上がる程に嬉しくて。その悲哀を浮かべた表情に、私を頼ってくれたという事実のみが、私を有頂天にさせて。

 そんな私が、おぞましい程に浅ましくて滑稽で、恋というのは愛というのはこんなにも陰湿な感情であったのかと、怖気すら感じる。

 そんな私の後ろ暗い感情を知らぬ椎本は私の貸したタオルで濡れた髪を拭いている。その間に、私は暖かい紅茶を注いで、テーブルの上に出しておいた。

 ソファに腰掛けた椎本が短く礼を述べた。その紅茶が注がれたカップに口をつけてから、ようやくここへ来た理由を語り始めた。


「塚本に怒られちゃったよ」

 初めの言葉は、そんな戯けたような口調だった。

「……塚本、結構口悪いからね。でも、いい奴だよ」

「うん、分かってる。分かってたのに、私は塚本みたいな人も、嫌いな連中と同一視してたんだ」

 それは、一方的に相互理解を拒んだから。

 そんな難しい言葉を使わずとも、彼女の言いたい事が不思議と理解できる。

「去年、私は結構人の恨みを買うようなことをしてね。中学三年生っていう貴重な時間を、まるまる奪ってしまったんだよ」

「……それで、塚本が?」

「その件で、って訳じゃないけどね。兎に角さ、その時の私は誰かに助けを求めなかったせいで、事態を大きく複雑にしてしまった。そしてまた、同じようなことが起きようとしている」

「……」

 訊きたい事は多くある。

 だが、それを全て話し合えるまで我慢しないのは野暮にも思えてきて、私は口をつぐんだ。

「--当時の私はさ、私一人が全て背負えば、それで済むと思ってたんだよね。その考えは、塚本に怒られるまで変わってなくて、今も同じようなことが起きて、塚本に言われたんだよ。助けを求めないのは、それを拒まれるのが怖いからだって」

 情けないよね。

 と、彼女は自嘲する。

 こんな時、自分の対人関係の経験の薄さが嫌になる。こんな時、なんと言って慰めれば良いのか分からないからだ。

 ただ、静かに聞いて頷くしかできない私は、酷く無能だ。

「そんな時にさ、江月の顔が浮かんだよ。拒まれたくないのは、今の私にとっては君なんだ。私の、愚かで醜くて乱暴な私の本性を打ち明けても、拒んでほしくないのは、江月だけだった」


 それは鎖のような何かだ。

 私を縛り付ける、鎖。

 ただシンプルな物事だけを周囲に集めて、放埒で煩雑で粗雑な人間社会の悉くを忌み嫌って遠ざけた私の天国から引きずり落とすような、極彩色の重苦しい鎖。

 その鎖を彼女の手で首に繋がれるのを、私は望んでいた。

 天国のような何もない世界から連れ出してくれるのは、ああ、やはり、椎本だったのだ。


「--だから、私の昔話を聞いてくれるかな」


 自分だけの天国を棄てる行為を愛と呼ぶのだろう。

 私は初めてそれを知る。

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