第八話 卑怯者の理想 ②

 理想に対して、私は不躾な程に無遠慮であった。

 私の思い描く理想というのは、叶わぬ夢と同義であって、その理想に向かって努力するという行為自体、思いもつかないことだった。

 銀幕で活躍するスターを見て憧れる子供の様に、憧れるだけ憧れて、後は無責任に何もしない。

 つまりはそういうことで、叶わぬ夢に努力するくらいであれば、国の定める標準的な教育カリキュラムを盲目的に信頼する方が余程利口なのだと、小賢しい考えを持っていた。

 その小賢しさなりに、勉強に打ち込んでいれば、それなりに立派な人間なんだろうけど、残念なことに一定の水準--つまりは平均的なレベルを保てればそれでいいという、大袈裟に言うと退廃的な考えが私を支配していた。

 つまるところ、私は怠惰な人間で、努力だとか目標だとか理想だとか、そういう煌びやかな単語とは無縁の人間なのだろう。

 そういう嫌みたらしい、大人が子供に向かって言い聞かせる際に滅法便利なこの言葉達を心の底から純粋に信じていられるのは、才能のある人間の特権なのだ。

 そういう考えを持ってはいるが、はっきりとそう断言することすら出来ない半端な存在が、江月若菜という人間であるということは、私が一番知っていた。



「ごめんね、お昼ご馳走になって」

「いいって。宿題手伝って貰う御礼だよ」

 クーラーの無い椎本の部屋は、古い扇風機だけが二人の生命線だった。

 そのためなのか、昼に椎本が振舞ってくれた素麺は普段より美味しく感じた。

「夏休みが終わっても、まだまだ暑いね…」

 部屋着に着替えた椎本の薄手の白いTシャツに、僅かに汗が滲んでいた。食器を洗う椎本の後ろ姿を見て、そんなことに気づく。

 そのまま視線はなんとなく上の方へと移動して、うなじの細い髪の毛が、首筋から滴る汗で肌にくっついていることを知る。

 汗ばんでいる首筋が甘く誘っている様に見えて、その扇情的な光景に、私はだんだんと思考能力がガリガリと削られていくのを感じていた。

 頭がぼーっとするのは、何も暑さのせいだけじゃないだろう。

 血の匂いに魅せられた吸血鬼のように、私はふらふらと椎本の背後に近づく。

 その首筋まで、あと少しの距離というところまで指を近づける。

 本当は指ではなく、唇をその首筋に這わせたかった。そうしなかったのは、私の中に僅かに残っていた理性の作用なのだろう。

 人差し指の先が、椎本の首に触れる。弾力のある皮膚が、私の指を少し押し返していた。

「ふふ、どうしたの?」

 驚く訳でもなく、私が突然戯れてきただけのように捉えた椎本が少し笑って振り返る。

「えと…、手伝おうか?」

 慌ててそれらしい言い訳を咄嗟に返すと、今度は困った様な笑顔を浮かべてから、グラスを二つ取り出した。

「んー……。じゃあ、冷蔵庫から麦茶出してくれる?それ飲みながら宿題やろうか」

 まるで親娘の様な会話が交わされる。

 私は彼女からグラスを二つ受け取り、素直に麦茶を注いで折り畳み式のテーブルの上に並べた。

 椎本の身体にもっと触れていたいという願望だけが、膨らんでいく。そんな気持ちを落ち着かせるように、注いだばかりの麦茶を一飲みしてから、勉強道具をテーブルの上に並べた。

 椎本も濡れた手をタオルで拭きながら、座り込んで宿題をいそいそとテーブルの上に出した。見た感じ、あと一日頑張れば、何とか終わりそうな量だ。比較的答えの覚えている化学のプリントを私は進めると、椎本は改めて礼を述べた。

 何となく。

 何となくだが、こういう普通の友人同士が過ごすような時間の良さを、初めて私は知ったような気がした。




 肌に纏わりつくような、湿度の高い熱気を感じて、私はゆっくりと目を開けた。

 スマホを見ると、時刻は九時を回っている。テーブルの上には終わらせたばかりの椎本の宿題が並べられていた。

 どうやら、眠り落ちていた間に椎本は自力で宿題を終わらせたらしい。まだハッキリとしない思考のまま、部屋を見渡す。

 椎本も私と同じように眠ってしまったようで、いつも学校に持っていっている鞄を枕に仰向けになり、小さな寝息を立てていた。

 朧気な記憶で、椎本に「眠かったら昼寝してて良いよ」と言われたような気がする。

 少なくとも、二時間以上は二人とも寝ていたのだろう。その証拠に、部屋は宵闇に包まれていて、明かりを点ける前に眠りこけてたようだ。

 アパートの前を通る車の音が時折り聞こえるのみで、部屋の中は扇風機のモーター音以外は静寂が支配している。

 大きく伸びをして、椎本の寝顔をもう一度眺める。

「なんていうか……卑怯だよ」

 我慢出来ずに、私は小さい声を発した。

 眠っている時ですら、椎本は私の目を釘付けにする。ふと、彼女の何がそんなに私の心を擽るのだろうと、疑問に思う。

 気持ちに理由を求めるのは愚者のすることだ。確かそんなことを不倫して家を出て行った母は言っていた。

 もしこの気持ちに理由がないのなら。直感と本能が彼女を求めているのだとしたら。

 それはまるで、父を泣かせたあの女と同じではないか。

 それは嫌だ。

 堪らなく、嫌だ。

 あの女の血が流れているというだけで、私は私を嫌いになりそうなのに、そういう性質まで引き継いでいるのだというのを否定したくて堪らない。

 だから、私は理由を求める。

 それは、知性を求めるように、理性を捨てる行為だった。


 私の意思に反して、何かが私を突き動かす。

 何故そう思ったのか説明はできないが、何故か私は、彼女に触れればその理由が明確になると思っていた。

 暗がりの中。窓から差し込む街灯の光に照らされた長い影が、静かに動く。

 冷静ではあったが正気では無かった。彼女の寝顔は、微弱な引力を持っているように、私の顔が近づいていく。

 まるで初めから、そういう物理法則が働いているかのように、自然に、公然と。

 二つの影と二つの唇が重なる。

 柔らかくて良い香りもする。世の中の恋人達が、何故あんなにも接吻を好むのか、それが理解できた。

「ごめんね、椎本。私、君のことが--」

 寝ている相手にそれを言うのは卑怯なのだろうか。発露した気持ちが、私の口から出て行くのは、最早止められなかった。

 だから、わたしは一呼吸を置いて告げる。

 想いではない、気持ちでもない。

 私が彼女に伝えるのは、単純明快な事実のみである。

「--好きだよ」




 果たして彼女のことが好きな理由が分かったのだろうか。

 そんな疑問を呈したということは、きっとまだ理解できていない。だけど、私には理由があると確信しているし、なんらかの因果性がそこには存在しているのだと、主張したい程だ。

 私と椎本の理想の関係は、きっとこういうのではないのかも知れない。

 だけど、存在する未来とはとても思えない理想を描いてしまったのは私自身であり、抵抗虚しくその理想に向かって歩き始めてしまったのもまた私なのだと、その時の私はまだ理解していなかった。

 ただ一つ言えることは。

 私はきっと、椎本がいなければ。誰かに恋愛感情を抱くということは、恐らく無かったのだろうなという奇妙な確信だけであった。

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