第八話 卑怯者の理想 ①
多分どこかで、人は現実に対して妥協と屈服を繰り返す。
人間万事塞翁が馬、なんて言葉の通りに、未来の事を完璧に予測する術などないことを良いことに、現実という存在に対して白旗を挙げているのだ。
問題はどのタイミングでそれを行うのかだ。
早ければ早いほど、無駄な時間を失わずに済むのかもしれないが、ギリギリまで抗うことで理想の現実により近づくことのできる可能性もある。
その抵抗を努力と呼び、早々に屈服する者を現実主義者と呼ぶのであれば、私は初めから現実に対して理想を描くことすらしない悲観主義者とでも位置付けるべきか。
だからこそ、初めから勝ち目のない勝負なんてしない主義であった私は、この迫り来る現実にどこで妥協するべきか答えを出せずにいた。
椎本との関係を、どこで妥協するべきなのか。落とし所はどこになるのか。
そもそもどこで妥協したとしても、結局は後悔するのだから、もう諦めるほかないのか。
なんで私は男に生まれなかったのか。
何故椎本が女に生まれてしまったのか。
初めから神様なんて信じちゃいないのに、恨み言を言うべき対象が存在しない時ばかり、恨まれる神様は気の毒だ。
それでも、文句の一つでも言わなければ気が済まない。
「おはよ、江月」
夏休みは終わった。休みの間、椎本と会ったのは数回。私はもっと彼女と過ごしたかったのだが、巷に溢れる無遠慮な連中と同じになるのを躊躇った。
本当は、無遠慮なんかじゃなく、私よりも何倍も他人との距離感を掴むのが上手であるだけなのに、自分を卑下する以上に、そんな彼らを見下していた。
私だけは違うと、捻くれたプライドが余計に世の中を酷く難解で醜悪な物に変えていただけだと気付いていた筈なのに、まだ僅かに残る素直さと折り合いがついていないのは、私自身の弱さだ。
そんな訳で、椎本と顔を合わせるのは実に二週間ぶりだ。
バイトが忙しかったのだろうか。春には透き通るように白かった肌が小麦色になっている。
「焼けたねぇ」
「日焼け止め切れちゃってね。塗ってなかったのは一日だけなのに、もうこんなんなっちゃった」
腕を捲って、二の腕あたりの日焼けの境目を見せる椎本に、私はあの日を思い出す。
最元の柔肌の魔力に負けて、半ば無意識に彼女の肌に触れてしまった日のことだ。
あの感覚は忘れられないし、あの時の半裸の椎本の姿すら、折に触れて脈絡もなく脳裏に浮かぶ。
「……それじゃ、学校行こうか」
椎本は自転車を手で押しながら、私を陥れる意思すら疑わせてしまうほどに、爽やかで--そして私にとっては蠱惑的な--笑顔を浮かべる。
「ねぇ、江月」
通学路の途中。僅かな傾斜の道で、9月になったばかりの朝の空気を堪能するように大欠伸をした椎本が思い出したように名前を呼んだ。
「んー?」
彼女の後ろ姿、特に後ろ髪の隙間から覗き見える日に焼けていない白いうなじに目を奪われていた私は、ほんの少しドキッとしつつ返事をする。
「江月ってさ、勉強得意だったりする?」
「いやーどうだろう……。テストは平均80点位かなぁ」
少なくとも、先生の手を煩わせるような成績ではないと自負している。
夏休み前の期末テストも特に目立つような点数を取ったわけではない。
「なんかあったの?」
普段はそんな話題を出さない椎本を怪訝に思った私は、ストレートに訊いてみることにした。
すると、少し照れたように、苦笑していた。
「なんていうか……次の中間でそれなりの点数取らないと…マズイかも」
どうやら椎本は期末テストの期間を免許取得に使ったらしく、成績は散々だったそうだ。
それでも補習は免れたようだが、休み期間の登校日で教師から直々に次のテストで平均点を取らなければ、補習を受けなければならないと忠告されたようだ。
「ちゃんと勉強しても、平均点を超える自信がないんだよね」
「……わかったよ、一緒に勉強でもする?」
私は彼女が何を言いたいのか、何となく感づいた。少し戸惑ったのが、その予測が私の勘違いではないかという疑念が一瞬頭を過ったからだ。
「流石にバレてたかー。それじゃあさ、早速だけど…」
椎本は夏休みが明けて、少し明るくなった気がする。以前より声が明るいし、何より積極的だ。
夏休みの間に何かあったのだろうか。
それを訊いてみたい気もするが、なんというか、椎本が自発的に話さない限り、私からそれを問うのは公平ではない気がした。
私も彼女に明かしていない秘密がある。いや、秘密というほどでもないかもしれない。
それでも、私が彼女に惹かれている事実は、椎本に告げることは出来ない。
それをはぐらかすように、私は彼女の言葉を遮る。
「早速って、次のテストまで結構あるよ?」
会話が途切れると、口を衝いて、彼女に明るくなった理由を訊いてしまいそうで怖かったからだ。
「夏休みの宿題、すっかり忘れててさ」
「意外だね。椎本ってそういうところは、結構きちんとやるのかと思ってた」
「そうかな?いつも私はギリギリまでやらないよ。今年の夏休みは、最終週が忙しくて、全然できなかったんだよね」
「バイト?」
「ま、そんなとこかな。今日始業式で午前で終わりだからさ、ウチに来て宿題手伝ってくれる?」
心臓が跳ねる。
ひょっとして彼女は私の気持ちに気付いているのだろうか。
時々、椎本はそんなあり得ない可能性を疑わせるような発言をすることがある。
私が椎本に惹かれているのをすでに彼女は知っていて、それを見越して誘惑するような言葉を選んでいるのではないだろうか。
椎本は私にそんな都合の良い妄想を脳裏に浮かべるだけの余地を与える。それも、厄介なことに、思い出したような頻度でだ。
(そして段々と、私はそれを都合の良い妄想であると一蹴する余裕が無くなっている)
私は思う。
あれだけ明かすことのできない、同時に告げることの無い想いだと言い聞かせてきたのに、誓願の様な厳格なこのたった一つの掟の破綻を、私は願い始めている。
彼女に私のこの醜い気持ちを吐き出したら、どんな顔をするのだろう。
軽蔑するのだろうか、侮蔑するのだろうか、それとも…。
破滅願望がある訳でも、被虐嗜好者という訳でもない。
少しばかり、理性が欲望に対して甘くなっているだけなのだ。
「分かった。じゃあ、どこかで昼ご飯でも食べてから行こうか」
--だから、私は今日も期待する。
椎本が私に何かを望んでいるということを、望んでいるのだ。
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