第七話 一衣帯水の微睡 ②


 後悔するくらいなら、謝るくらいなら、最初からそんなことをするなよ。

 と、吐き散らかしたかった。

 だけどそれを言葉にすることはできなかった。

 そんなささやかな反撃すらも、無意味に思えてしまうほどに、私は衰弱していた。


「ええと……塚本、さん?」

 夏休みも残り数日となった八月二十四日。

 本日の労働を恙無つつがなく終え、バイト先のスタッフルームから外に出たところで、見覚えのある小柄な女性が配送用スクーターを止める駐車場の端の縁石に腰掛けていた。

「お疲れ様、椎本」

 ほい、と手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルを私に投げる。

 それを両手で受け止めると、短くお礼を言ってありがたくいただく。

 少し温くなっていて、塚本さんは少なくとも今ここに来た訳ではないことを理解した。

「それで、どうしたの?」

 多少棘のある言い方なのは、私と塚本さんはこんな風に気軽に会うような間柄ではなく、もっと気まずい関係であるべきなのだという意思表示でもあった。互いが互いに罪悪感を持っているような、痛みの伴わない古傷を指先で撫でるような不快感こそが、私と塚本さんの唯一の繋がりであるはずだ。

 だというのに、彼女はそんなことを忘れてしまったかのように気安く気軽に気味悪く、平然と俊然と憮然と、私の目の前に現れる。

「この後時間ある?ちょっと、歩こうか」

「……」

 諾意だくいのある沈黙と受け取ったのか、塚本さんは歩き出した。

 私としては、彼女の提案に対して了解した訳でもないのでついていく理由はないのだが、塚本さんはあの地獄のように感じられた中学3年のクラスメイトの中でもなほうだったので、話だけでも聞いてみるかと思う程度の私の信頼感は得ていた。

 数分歩くと、小さな公園があった。

 いくつかの遊具とトイレとベンチがある公園で、子供もいるが、休憩中のタクシーの運転手の姿も多い。

 幸いベンチは空いていたので、二人で腰掛ける。その間、無言だった。だが、その無言は気まずいという意味を持ち合わせてはいなかった。

 何故なら、元々私達の間に仲睦まじく会話が交わされるなんてことは、一切あり得ない話だからだ。

 当たり前の無言が、夏の炎天下の中で晒されている。

 その沈黙を破ったのはやはり、塚本さんの方だった。


「……なぁ、地底人っていると思うか?」

 深刻な顔をしていた割には、随分と剽軽ひょうきんな印象を受ける発音の単語に、思わず吹き出しそうになる。

 しかしそんな愉快な感情も一瞬のことで、すぐに心臓の奥底で冷たく細い感覚が脈打つ様に胸から喉元まで駆け上る。

「え?地底人……?なんだろ、最近もそんな話聞いた気がする……。流行ってるの?ごめん、オカルトな話は詳しくないんだよね」

「……いやすまん。私の聞き方が悪かったな。地底人を名乗る奴に知り合いはいるのか?」

「そりゃあ……いないよ。勿論」

 態々夏休みにバイト先まできて訊くことだろうか。それも、あまり仲良くない元クラスメイトに対してだ。

 彼女もまた、江月とは仲が良いみたいだから、邪険にする訳にもいかないが、それでもこんな話を態々しにきたのかと思うと、互いの関係性も含めて、悪態の一つや二つは投げつけたくなる。

「ま、普通はそうだわな」

「なんで急にそんなこと」

「中学の同窓会、アンタにゃ案内は来てないとは思うが、私の確認できる限り、パソコンで印字された便箋で大体の連中に届いてるんだよ。今年の年末に開催するそうだ」

「あんな状態だったのに、同窓会なんてするんだ。いや、原因である私がいなけりゃ、普通に開催できるか」

 拗ねたという訳ではないが、知らせなくても良い情報を、わざわざ私に教える性根の悪さが面白くなかったので、多少は棘のある言葉を使ってしまう。

 そんな私の苛ついた態度に塚本さんは苦笑しつつ、話題に出た案内状らしき便箋を手渡した。

「住所が変わり椎本さんの宛先がわからないため、進学先が同じ塚本さんには口頭で開催のお知らせを案内いただけると助かります--だとさ。別に嫌味で来た訳じゃないぞ」

「嫌味だよ。こんなの私が行くはずないじゃん。それに、地底人関係ないし」

「それが、差出人が地底人とか名乗っててさ。それで皆不気味がってんだよ」

 ならそもそも、皆でそんな案内を無視すればいいのに。

 口に出さずに文句を心の中で呟いてもみるが、目の前の塚本さんに対してキツく当たっても意味がないのは、目に見えている。

「そんじゃ、渡したからな。しかし暑いな、冷たいもんでも飲みにいくかな」

 塚本さんは立ち上がると、身体をほぐす様に大きく伸びをする。小柄な彼女は伸びをしても猫が身体を伸ばしているような愛嬌ある動作にしか見えない。


「ありがと」

「……」

 行くかどうかは別として、案内状を渡してくれたことには感謝の気持ちはあった。

 渡してくれたことそのものではなく、そんな面倒くさい仕事を果たしたことに対するささやかな感謝だ。

 しかし、私の短い礼に、塚本さんは伸びをしたまま私を見返した。

「なに?」

 何も言わずにこちらを見続ける塚本さんに、私はついそんな冷たい言葉を言ってしまう。

「……いや、あんたからそんな言葉を聞けるなんて思わなかったからな。やっぱり、どこか柔らかくなったよ。憑き物が落ちたみたいな感じ。それは、やっぱり江月のおかげかなぁ」

「……その憑き物とやらを憑けたのは、誰だと思ってるの?」

「ま、それはお互い様だろ。あんたにだって言いたいことはあるだろうけど、私だって多少は言いたいことがあるのさ。それを口にしないのは、互いが互いに理性を持っているからであって、今あんたがそういう風に冗談っぽく言い返せるようになったのも、理性のおかげだ」

 塚本さんは遠い目で、当時のことを懐かしむように言う。


 つまり、あの時より、互いに少し大人に近づいたんだよ。


 そう結論づけて、彼女は去っていった。

 大人に近づくということは、こうやってあの時の功利と罪過を無かったことのように笑うことなのか。

 それが出来るのであれば、

「大人というのも、案外悪くないのかもね」

 その狡さを批判するほど、私は子供でもなくなっていることに、ようやく気づく。

 かつて同じ空間を共有していたというのに、初めて彼女の言葉を理解することができた。

 もしかしたら、私とあの当時のクラスメイトとの間に深く刻まれた大いなる溝は、細い川の様ななんて事の無い差異だったのかもしれない。いや、それどころか、微睡の夢の様に曖昧な境界でしか無かったということも十分に考えられる。

 だが、それを認められる程、私はまだ大人にはなりきれていないというのも事実であった。

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