第九話 火花散る ①
公立図書館は、清貧極まった--というのは少し大袈裟かもしれないが--私にとって、重要な娯楽の供給源であるのは間違いなかった。
私自身、そこまで読書家と思ってはいなかったが、毎週の様に数冊借りている私を、江月は読書家だと、笑ってそう評した。
特定のジャンルや作家の好みがある訳でもない私が、読書家だと名乗って良いのかの是非はどうあれ、少しでも興味の引いた図書をざっくばらんに読んでいたのは確かだ。
あれは夏休み前であったか。
偶然見かけた「花物語」というタイトルの小説を手に取り、私はそれを可憐なファンタジー小説かと思い込んで借りたことがあった。
内容はある意味私にとってはファンタジーに等しいものではあった。
何故こんなことを今思い出しているかというと、その花物語のような世界が、私の眼前に突如として現れたからだ。
私は江月が近づいてくる気配を浅い眠りの中で感じ取っていた。
すっかり寝てしまった--。ああ、起きて江月に宿題の礼を言わないと……。どのくらい寝ていたのか。晩御飯作るの面倒だなぁ…。
そんな纏まらない思考のまま、目覚めようとする意思が惰眠を貪りたい欲求と闘っていた。
不意に唇に柔らかい何かが接触した。僅かに湿っている。
何事かと、薄目を開けると、目の前に江月の顔があった。目を閉じて、私と唇を重ねていた。
--そして、江月は言った。
私のことが好きだと。
それがどういう意味なのか分からないと言うのは、明らかに卑怯極まりないことであるのは理解できた。
私は、眠ったふりを続ける。
それもまた狡い行いだということは、わかっていた。
しばらく寝たふりをしてから、私は普段通りを装って、晩御飯に江月を誘った。
江月と共に近所のファミレスに寄って軽く夕食を食べてから解散したが、私は果たしていつも通りの対応を取れていたのだろうか。
江月はといえば、どこかぎこちなかったし、上の空にも見えた。
しかし、それは私が彼女のあの行為を知らなければ、そんな違いに気づかなかっただろうと容易く想像できる程度には微細な変化だ。
江月と別れ、一人で家に戻った私は、彼女の言葉をどう受け止めるべきか考えた。
私は人を愛するという感情が理解できない。それは勿論恋愛的な感情の好きであって、家族愛だとか友人愛ならば多少なりとも理解はできる。
きっと初めから、そういう感情を呼び起こす機能は私の心に備わっていないのだと思う。
他人はどこまでいっても、他人なのだ。互いが互いに差し出し合う関係を求められても、私に差し出すものなど何もない。
一方的な感情は、明らかに公平さに欠けると思うし、それを当たり前の様に受け入れられる程、私は他人を信用できない。
江月は友人だ。久しくそう呼べる関係性の人間はいなかったが、そんな私に漸く出来た大切な友人だ。
だからこそ、好きだと言われて、私は困惑していた。
私には、誰かに愛される様な資格はない。
私自身、私を愛せてはいないのだ。
きっと誰かに愛されても、その人を幸福にすることができない。
そんな私を好きになってくれた江月には、私なんかよりも一緒に幸福になるべき人物がどこかにいるはずだ。
それでも、これは私の我儘だけれど。
私はまだ江月の友人でいたい。彼女と過ごす時間は私にとっては貴重なものだ。
だから、私は卑劣かも知れないけど、聞かないふりをした。
私はあの時、寝ていた。だから、何も知らない。
そう、思い込むことにしたのだ。
始業式が木曜日だったので、翌日の金曜日を終えれば、ひとまずの週末が訪れる。
その間の私といえば、江月との朝の通学がどこか気まずかった位で、あとは普通だった。
土曜日の朝は、チャットアプリの通知音で目が覚めた。私のスマホにメッセージを送りつける物好きは江月しかいないので、朝から心臓に悪い動悸が走る。
布団からのそのそと這い出て、充電していたスマホを手繰り寄せると、発信主は江月では無かった。
ニックネームで登録しているのか、妙な名前が画面に表示されている。
「チテイジン」
寝起きの頭のせいか、一瞬、私はそのカタカナの文字を理解できなかった。単なる適当な文字の羅列にしか見えなかったのだ。
大きな欠伸をしてから、台所で冷たい水を飲むと、漸く頭が動き始める。まるで一昔前のパソコンのように働き始めるまでがやたらと長いのは、昔からだ。
「チテイジン…地底人?」
何か、デジャヴのような、つい近頃も似たような単語を聞いた覚えがある。
「なんだっけな……地底人……?」
ああ、と何とか気味悪い話を思い出す。
塚本さんから夏休みの間に聞いた同窓会の話にも、地底人という名前が出ていた。
「それ以外にもどっかで地底人って言葉聞いたはずなんだけどなぁ」
妙に引っかかるが、取り敢えずメッセージを開くことにした私は思わず短い悲鳴をあげた。
そこには、私への罵詈雑言が--恨み節が--書かれている。
だが、それだけならば私は驚きはしただろうが、可憐な少女のように、悲鳴などはあげなかっただろう。
そこには、江月のことも書かれていた。
淫売の娘、と。
それがどういう意味なのかわからないし、仮にそれが本当であれ、江月本人には何ら関係の無い話だ。
とにかく、長文のそのメッセージには、私をこき下ろすような、恨みと怒りと悲しみを感情のまま書き殴ったような面罵の羅列が主だってはいたが、末尾に「淫売の娘の江月若菜共々、お前は死んでしまえ」と、吐き捨てるように書いてあるのを見て、私は只事では無いと感じた。
少なくも、私はこのメッセージに込められた意味を汲み取る余裕もなく、何らかの脅威だけは感じていた。
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