第六話 槿花一朝の夢 ②

 バイト期間を終えた頃には、すっかり盆も暮れ、我が家の庭には芙蓉ふよう百日紅さるすべりが花弁を大きく開いていた。

 残ったものは、貴重な青春の時間を捧げて得た給金と椎本楓への好意の確信のみだった。

 彼女とどういう関係になりたいのか。それは明確であるが故に、子供の頃に何となく胸中に浮かんでいた単純明快な将来の夢と同じように輪郭そのものがぼやけてしまっている。

 特筆するような趣味や熱中するものも無いので、日中から暇を持て余しながらも、その余暇を楽しんでいると、不意に椎本への想いが去来する。

 想いを告げるべきか否か。

 それは答えの分かりきっている問題のはずなのに、何度となく私は考え込んでしまう。

 毎朝の日課である庭の手入れをしている今も、そんなことばかり考えてしまう。

 人間の恋愛も、雄蕊おしべ雌蕊めしべの如く単純なものであれば良かったのにと、恨めしく思いながらも、花弁に水滴を乗せた百日紅の花を指先で触れてみる。

「……馬鹿らしい。本当に、下らない」

 呟いてみる。

 かつて心の中で見下していた、同学年のクラスメイト達の方が、余程大人だった。やれ彼氏ができただの、好きな人がいるだの、そんな話ばかりする彼女達を私は軽蔑していたのに、いつの間にか私は彼女達の方が優れているのだと知ってしまった。

 だというのにも関わらず、私は心のどこかで未だに彼女達を軽蔑し続けていて、そんな彼女達と何ら変わらなくなってしまった私自身を唾棄するべき存在かのようにそんなことを呟いていた。

「どうしたの?」

 誰も聞いていない筈の呟きに返答が戻ってきたものだから、私は驚いた。

 あわてて声が聞こえた方向へ向き直ると、門扉の奥からこちらを覗いている椎本がいた。

 思えば、直接顔を合わせるのは夏休みが始まる前日以来だろうか。およそ三週間ぶりということになる。

 すっかり本格的な夏が到来して久しく、椎本もスキニージーンズに白いTシャツとラフな格好をしていた。

「急にどうしたの?驚いたじゃん」

「そんなに驚くことかな?いや、ごめんね、急に。バイト先が店舗改装でしばらく暇でね、散歩ついでに久しぶりにここの庭見たくなってさ」

 と言いながら、椎本は丁度水やりを終えたばかりの百日紅を見上げた。

「……ここは季節の移ろいを感じられていいね。今まで気づかなかったけど、私、好きなのかも」

「……植物が?」

「うん。私もサボテンとか育てようかな」

 随分と心臓に悪い文脈を唐突に放り投げてくるものだと、半ば恨むような気持ちで椎本の横顔を見た。

 滑らかな大理石の彫刻のような頬に太陽の光が反射している。

 それが妙に艶やかで、あまりにも心の何かを逆立てる。

「ね、江月は今日暇かな」

 見惚れていると、柔い視線を百日紅から私に移した椎本は唐突に訊いた。

 よもやともすれば、程度に期待していた提案ではあったが、仮に予定があったとしても思わず反射的に頷いてしまうような可憐さを感じる言葉であった。

 それは幻想かもしれない。そういう幻を見せられるほどに、私は彼女に惚れてしまっているのだろう。反芻すればするほどに、深みに落ちていくのを分かってしまう。

「うん。どこ、行こうか」

「……どうしようか?」

 何も考えてなかったな、と椎本は軽く笑う。

「取り敢えず準備するから、ウチで待っててくれる?」

 不意に部屋着であることに気づいた私は、椎本を家に招き入れることにした。


 既に父は出勤しており、姉は昨晩から帰ってきていないので居間で待っててもらっても良かったのだが、

「前も見たけどさ、もう一回、江月の部屋に行ってもいい?」

 というので、少々気恥ずかしい気持ちになりながらも、二階の自室に通した。

 普段自分が好き勝手している場所に椎本がいるというのは落ち着かない。そんな可能性は微塵もない筈なのに、不思議と心の内を覗かれている気分になる。

「江月、結構本読むんだね」

 部屋の一角を占める本棚に興味を持った椎本が、さて何を着ていこうかとクローゼットの前で悩む私を尻目にそんなことを言う。

「話題の本ばかりだよ。あとは、SF小説とかかな」

「SF好きなの?結構意外だな。あ、これとか読んだことあるかも」

 手に取ったのは有名な古典SF小説だった。フランスの何とかという作家のもので、タイムマシーンで未来に行く話だった気がする。

 父の書棚にあったもので、裏表紙に書かれているあらすじのコミカルな内容とは裏腹に非常に恐怖心を煽るようなストーリーだったのを覚えている。

「そういえば、お姉さんは?」

「昨日から友達と飲んでるよ。もしかしたら、飲みすぎて友達の家でグロッキー状態かも」

 時折、というか大学進学してからよく見る姉の二日酔いの姿を思い出して、情けなくなる。

 二十歳になったからと言って、いくら何でも飲み過ぎではないだろうか。もし私が進学したらあんな風になってしまうのかと思うと、今から気をつけようと自戒する気持ちすら湧く。


「江月の下着、大人っぽいね」

 タイトスカートを手にして手早く着替えようとジャージを脱いだ私を見て、椎本は揶揄う訳でもなく、気を使う訳でもなく、犬を見て可愛いと発言する程度の気楽さでそんな感想を述べた。

「そう、かな?椎本の方が、大人っぽいイメージだけど」

 Tシャツを着ながら平静さを装う。だが、それすらも見透かすかのように、椎本はとんでもない提案を投げかけた。

「そうかな?見てみる?」

 と、私に制止する暇さえ与えずに椎本はTシャツを捲り上げてブラジャーをあらわにした。

 薄い青色が、何故か淡く花弁を咲かせる菫を想起させた。同性の下着姿なんて、体育の授業のたびに見ているはずなのに、不思議と目が離せない。

 私はブラジャーそのものよりも、指先で軽く押せば僅かに押し返して来そうな白く柔い肌と、微妙にくびれた腰元に視線は釘刺しになる。

 誘惑されているみたいだ。クラクラする。

 椎本は無垢な程に私にその柔肌を見せつけることに何一つ邪な感情など持ち合わせていない。慇懃いんぎん無礼に視線を占領する艶かしい素肌が、遠慮など無く絹のようにしなやかな矛先を私に向けていた。

 まるで催眠術にかかられたようだ。

 触れたいとか、そういうことでは無く、うつらうつらと微睡んでいるときの取り止めのない思考の如く、半ば無意識に指先は彼女のへその横に伸びていた。

 柔く温い肌だった。恐ろしく語彙力の無い私の精一杯の表現力で喩えるのならば、ハンペンのようだと思った。

「え、と、江月?私のお腹なんて突いてどうしたの?」

 戸惑うというよりも、突然戯れてきた私に苦笑するかのような語感で椎本は言うと、そこでようやく私は我に帰る。

「ん、ええと……触り心地が良さそうだなって」

 変に謝るのも本気っぽく思われそうなので、あえて冗談っぽく言うと、今度は椎本がTシャツの上から私の腹部を指先で突いた。

「む、もしかして江月って結構鍛えてる?」

「一応中学の時はバレー部でしたから」

 戯けた台詞は全て虚飾で、胸中というよりも腹の中の真実を彼女の思考から遠ざけるためのベールというにはあまりにも杜撰過ぎる言葉であると言い終えた後、思った。

 上手く誤魔化せただろうか、顔は赤くなってないだろうか、挙動不審に思われていないだろうか--私の気持ちはバレていないだろうか。

 いっそのこと、開き直ってしまえればどんなに楽なのだろう。


 だから人間関係というのは、苦手なんだ。

 楽な道を選ぶ勇気を持てない私の性格が、余計に苦手意識を強めているのだろう。

 椎本と出会って他人と共に過ごす価値を見出したとはいえ、根っこの部分はやはり同じであったのだ。

 これではそれこそ木槿むくげの花のようではないか、と私は心の中で自身を蔑んだ。

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