第六話 槿花一朝の夢 ①
私は椎本楓が好きだ。
多分それは、友人に向けていい感情ではない種類の好きであって、多少社会的理解を得ている現代にあってもまだ、ある程度の奇異の視線を向けられるような許されざる恋心なのだろう。
あの日、椎本の家で夕飯の準備をする彼女の後ろ姿を眺めているという何のドラマ性のないシチュエーションの中で気付いてしまった私の彼女に対する好意の正体は、およそ友情に分類されるものではない。
彼女を好きなのだと、恋をしているのだと、そう認識してしまった日から私は私に色々な虚偽を並べ立てて、どうにかして恋心ではないと立証しようとした。
だが、嘘を嘘だと理解している自分を騙すことほど難しいものはなく、私は遂に椎本が現れる夢まで見るようになってしまった。
夢の中の椎本は、甘えるような声で私に囁いて唇を近づける。二人の身体はこれでもかという程に密着していて、左右の手は互いが互いを縛るように固く握られていた。
呆れる程に分かりやすい夢だった。分析心理学者で無くても、私の願望や欲求なんてものはすぐに理解してしまうに違いない。
端的に言えば、私はこの夢を見て諦めた。
素直に椎本が好きなのだと、認めることにした。
彼女への気持ちを自覚していようとなかろうと、私の想いを告げることは無いだろうし、私と椎本の関係は多分友人のまま変わることもない。
私の気持ちなんてものは、なんの影響も及ぼさないし、私自身がそれを望まない。多分私の人生というものは、そういう風に続いていくのだろう。
「若菜、アンタ夏休みに入ってからぼーっとし過ぎ。暇ならバイトでもすれば?」
長期休みどころかほぼ毎日自堕落な生活を送っている姉にまで言われるとは思いもしなかったが、確かに自覚はあった。
元来出不精な性格ではあったが、それでも日がな一日中家の中でゴロゴロしていることは少ない。それが夏休みに突入して一週間、ほぼ毎日家にいるのだから、流石の姉も小言を言いたくなるのもわかる気がする。
とはいえ、二日酔いの姉がそこまで考えてるとは思えないが。
「バイト--か。一応、短期バイトの登録はしたけど……」
「アンタ接客とか無理そうだもんね。ほら、この間ピザ届けてくれたあの子みたいに接客とかできないでしょ?」
言われてみれば確かに、椎本だって私と同じくらい人付き合いは苦手としているはずなのに、初対面であった姉が愛想の良い子という印象を受ける程度には社交辞令を身につけていた。
それを考えると、私も--と、多少なりとも頑張ろうという前向きな気持ちが湧いてくるのは、彼女のおかげなのか。
丁度、という訳ではないが、サブスク登録している動画配信サイトの動画一覧を見ながら何となくバイトに対して前向きな気分になったタイミングで、チャットアプリがメッセージの受信を短く通知した。
見ると塚本朱音と表記されていて、可愛らしい顔文字と暇という一文字だけが送られてきている。
数回のやり取りの後、結局駅前の喫茶店で落ち合うこととなった私が、気怠い体に何とか鞭を打ちながら着替えていると、リビングのテレビで連続ドラマの再放送を寝転がりながら眺めている姉と目が合う。
「なぁに?デート?」
「友達と会うだけ。姉ちゃんこそ、彼氏でも作りなよ」
大学でよほど気が合う友人ができたのか、バイト以外は殆ど夜に飲みに行く姉に向かって私は半ば本気で言ってみるが、何が可笑しいのかカラカラと笑いながら、視線だけをこちらに向けた。
「アンタは小さいから覚えてないけどさ。私はあの母親を知ってるの。あんな女を見て育つとね、恋愛なんてものはするもんじゃないな、って思うもんなのよ」
「……そう。孫の顔見れないと、それこそ父さんが悲しみそうなもんだけどね」
「それは若菜の役目でしょ?」
「……ま、そっちの方面は父さんには諦めてもらおうか」
姉妹で後先真っ暗な恋愛話をしたところで、なんの益にもならないと判断した私は適当に切り上げて、早々に退散することにした。
「おっす。一週間ぶり」
「あれ、塚本焼けた?」
夏休みが始まってまだ一週間だというのに、塚本は小麦色の肌に様変わりしていた。背丈も低いため、中性的な顔立ちの虫取り少年と言っても案外信用する人はいるかも知れない風貌だ。
「野外フェス行ってたからね。夏休み早々金欠だよ」
国内外はおろかジャンルすら問わず音楽と聞けば兎に角一度は鑑賞するという塚本は早速夏フェスを堪能したようである。
手には無料で配布されているバイト雑誌を手に持っており、会話の流れから何となく塚本が私を呼び出した理由を察知した。
「それで、バイトに付き合えって?」
「当たり。やっぱ友達と一緒の方が楽しいと思ってさ。江月はどう?夏休み暇なら一緒にバイトしない?」
私はアイスティーの入ったコップを傾けて、喉を潤しながら逡巡した。
なるほど、確かに一人でやるよりは友人と一緒の方が心強い。
しかし、これまでの経験から、友人と呼べる間柄と言えども、多くの時間を共有したり、何か一つの作業をともに行うという行為はリスクが高い。
というのも、中学生の頃、学園祭の準備で経緯がどうあれ仲違いしたクラスメイトを知っているし、修学旅行で大喧嘩して卒業まで口を聞かなかった女子のグループも見てきた。
私は自身の性格も相まって、友人とは程々の距離を保つ付き合いが一番なのだという自論の元、これまで慎重すぎるほど警戒しながら生きてきた。
当然今回も同様の考えが頭を過ぎる。
しかし、私を取り巻く周囲に限って言えば半ば真理だと信じていたその人生観は、すっかり私にとっては唯一の真実では無くなっていた。
それもこれも、椎本が根本の原因として存在している。
他人と深く関わることを拒否していた私が、初めて深い関係になりたいと強く思える他人と出会ったことで、人間関係に対するある種の複雑さを緩和させていた。それは感覚の麻痺といってもよく、自己保身の術をかなぐり捨ててでもなし得たい何かが出来たからなのだろうか。
「矢嶋は?」
「矢嶋は元からバイトしてるからパスだって。で、どうする?一緒にやる?」
「バイトによるけど、そうだね、楽そうなのを一緒にやろうか」
結局その後、二人でバイト雑誌を眺めながら決めたバイトは、コンビニスイーツのラベル貼りという接客の必要のない食品倉庫での仕事に決まった。
いざ働いてみると、何を怖がっていたのだろうと肩透かしを食らうほどに楽な物だった。一番恐れていた他人とのコミュニケーションも、ひたすら流れてくるスイーツの包装に値段やらカロリーやらが記載されているシールを貼る作業に集中する必要があるおかげか、塚本以外と会話することも殆どなかったため、乗り越えられた。
二週間の短期であったが、終わった直後に感じたことといえば、その間椎本と会っていないのかという妙なもの寂しさだけで、そんな寂しさを感じた自分が少しだけおかしかった。
早く椎本に会いたい。
本当に私はこの想いを抑え込み続けられるのか。
それだけが、すこし厄介な棘となって心の柔らかい部分に刺さっていたのだった。
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