第五話 墓前に問う
淡い緑の葉を微かな風に揺らす菩提樹の太い幹に背を預ける。
葉の隙間から差し込む木漏れ日を避ける様に僅かに身体をずらしてから、ここに来るまでの間に買った冷たい緑茶のペットボトルを額に当てて、茹だる様な暑さを感じていた。
こんな半端な時期に墓参りする人も少ないのか、今日は住職の姿も見えない。前にチラッと見た時はかなりの高齢で、こんな暑い日に働いて居たら不安になってしまうので、それはそれで良かった。
ブッダが遥か昔に悟りを開いたと言われる菩提樹だが、同じ種類の木の下にいても、悟りが開けるどころか、煩悩ばかりが浮かんでくる。
生物というのは経験から学びを得る。それは人間に限った話ではなく、あらゆる生物はその学習を通じて生き延びてきた。
逆説的にいうならば、その学習の機会を活かせなかった生物達は絶滅して、上手い具合に対処できた生物達が今の世に生き延びているのだろう。
もし私という人間を、一つの種とするならば、恐らく近い将来に絶滅するタイプの生き物なのだろうな。それを自嘲混じりに真面目に考えてしまう程度には、私は同じ過ちを繰り返そうとしているのだ。
母が眠る霊園に足を運んでも、社務所に併設された自販機横の木陰から動こうとしないのは、気が向かないという理由からではない。
墓前に相応しくない気持ちが渦巻いている気がするのだ。
理由は分かりきっているが、原因が判明しているといえども解決策が明快になった訳ではない。
今の私を見て母はなんと言うだろう。生前の母は、こんな私に呆れ笑いでもするのか、それともバカにした様に頭をぐりぐりと乱暴に撫でつけて笑うのだろうか。
いずれにせよ、不思議なことに、母さんの笑顔しか浮かばない。
母さんは、決して豊かとは言えない生活の中で、一度も弱音を吐かなかった。それは恐らく私が子供であったことにも起因しているに違いないが、それでもいつも笑顔の絶えない印象を私に与えたのは間違いなく、母の明るさに幼い頃の私は幾度となく救われていた。
今にして思えば、辛かったはずだ。苦しかったはずだ。
病魔に侵されながらも、頼るべき親族はおらず、私を育てるために働き詰めていた。
それを思い出すと、私の悩みなんてものは些細と言うほかないのだろう。
椎本家と厳かに彫られた墓石は、母の先祖が代々眠る墓らしい。
母の両親は私が生まれた時には既に永眠していて、母自身も一人っ子の為、自然と一族の眠る墓守というのは母に受け継がれていたようだ。家系図なんてものを遡れば、どこかでまだ生存している親族の何人かは明らかになるのだろうけど、それを知る意味も理由もない。
母が生きていた時に、手を差し伸べてくれなかった親族なんて、いたところで、今更興味すら湧かない。
社会的弱者であるから、助けてもらうのは当たり前だなんて図々しいことを言うつもりはない。
だからこれは私の自分勝手な我儘だ。
柄杓で墓石に水をかけて、百均で購入したタオルで汚れを落としていく。
軽く墓石の周りを掃き掃除して、ようやくひと段落ついて、私と母の対話が始まる。
祈る様に手を合わせる。目を閉じて、心の中に浮かぶ言葉を少しづつ掬い取って、目の前にいるであろう母に手渡していく。
多分、色々なことを喋った気がする。
多くのことは、他愛もない内容だ。思い出の中の母の笑顔が、いつも後ろ向きな考え方をしてしまう私を叱っていた。
それはもう二度と見られない表情なのだと理解すると、不意に浮かんだ母の思い出を忘れ去るまいと心に強く焼き付けようとするが、それを意識すればするほどに、曖昧なものへと変わっていく。
それの連続が、きっと時が過ぎるということで、大人になると同義で、生きるということと似ているのだろう。
--本当の私は、弱虫で泣き虫な、ただの子供だ。
世の中を斜に捉えて、人々が生きる社会を勝手に生き難いものだと断定して、悲観主義者のように振る舞っているのは、逃避に過ぎない。
本当は抱きしめてくれるだけで良かった。大丈夫だよと頭を撫でてくれるだけで良かった。
母の前では私もただの子供の一人に過ぎないのだと、思い出した時。
心の枷がゆっくりと溶けていくのを感じた。
きっといつの日か、母の思い出も朧気なものへと変化していくのだろう。
だとするなら、まだ母をはっきりと思い出せるうちに、私は言わなければいけないことがあった。
そしてそれを口に出すのは、過ちを繰り返す蛮勇なのか、過ちを無かったことにしようとする勇気なのか。そのどちらとも言えない気持ちが、私を突き動かしていた。
「母さん。私、友達が出来たよ」
墓前にいたのは一時間程度だろうか。
炎天下の中にずっといたので、気づけば額に汗の玉が浮かんでいた。
耐えず鳴き続ける蝉の声が、どこからともなく聞こえる風鈴の音が、今にして思えば私の意識を半ば奪っていったのかもしれない。
典型的な熱中症に近しい症状として、背筋から額にかけて身震いするような寒気が立ち上って来る。
(あ、これはやばいかも…)
グニャリと覚束ない足元の原因が、両脚に力が入らない為だと気づいた私は、慌ててその場に座り込み、自販機で買った緑茶を飲む。
荒くなった息を抑えつけるように、緑茶を一気に飲み干すと、ぼやけていた意識と、霞んでいた視界が徐々に輪郭を露わにしていく。
こんな人気のない墓地で熱中症になんてなってしまったら大変なことになるところだった。
体調がとりあえず快方したのを確信すると、私は立ち上がった。念のために自販機でミネラルウォータを買ってから、取り敢えず涼しいところで休憩しようと、先ほどの社務所横の自販機を目指すが、整然と墓が並べられた墓地の端に、いつのまにか初老の女性がいることに気づいた。
不運な事故で親しい人を亡くしたのだろうか、見るのも辛くなるほどに、彼女は墓前で肩を震わせている。
「君の墓を汚い涙で汚しては水で洗い流すの繰り返し。私は幾度、こんな馬鹿みたいなこと繰り返すのでしょうか」
それは、墓前で静かに泣いている女性の声では無かった。
彼女よりももっと近くから、そして、彼女の姿から想定されるよりもかなり幼い声で、それは私の耳に届いていた。
喪服のような真っ黒い礼装を着た少女が、音もなく私の真横に立っていた。
「それが、あの人が今思ってることです。死後の世界なんてものを信じちゃいないのに、どうして死んだ人間に対して、今生きている人間は答えを求めるんでしょうかね?」
見た目からは想像もつかない、やけに大人びた言葉をつらつらと述べる少女は、大きな栗色の瞳で私を見上げながら、無垢な表情を浮かべている。
「ええと、あの、あなたは…」
例え子供とはいえ、見知らぬ人に話しかけられるのを極度に苦手としている私は、少し不釣り合いな言葉を選んでしまう。
「これは失礼。名乗りが遅れましたね。私は柊と申します。お察しの通り、地底人、ってやつです」
いやいや、何も察してない。
柊と名乗る妙な口調の少女に心の中でそうツッコミを入れてみるが、まだ熱中症気味なのか、うまく思考がまとまらない。
「それよりお姉さん。今日は誰かの命日ですか?お盆にはまだ少し早いですよね」
「別に命日って訳じゃないよ。墓前に顔を見せにくるのが、決まった日じゃなきゃいかないなんて決まりは無い、と思う。柊ちゃんには難しい話かもしれないけどね」
「地上は変わってますね。地底では墓に手を合わせるのは決められた日のみですよ。過去の人に、現実の人間の時間を割くのは不合理だという理由です。あと、柊と呼び捨ててで構いませんよ。お姉さんの方が幾分かは人生の先輩なのですから」
随分と大人びた少女だ。だというのに、自身を地底人だと言い張る危うげな幼さも持ち合わせている。
過程はわからないが、恐らく彼女が自身を地底人だと信じ込む原因はその髪色にあるのだろう。
陽の光が当たる度に銀色に輝く、艶やかな白色。日本人離れしたその髪色と、同じ色の瞳が、きっと彼女の歪な信仰を産んでしまったのかもしれない。
周囲の人間と違う理由を、そこに求めたのだろう。私にも覚えがあるし、きっと、全員とは言わなくとも、少年少女の数割程度なら経験したことのある事象だ。
異質な自分の部分を特別なものだと思い込むのは、何も異常なことでは無いのだ。
「あ、お姉さん、その目は信じませんね?あー大丈夫ですよ。信じられなくとも結構。これは泡沫の夢ってやつです。お姉さんの遠い記憶が、不意に水面まで浮かんで飛沫を上げたようなものです」
「夢……?こんなに意識がはっきりとしているのに?」
「夢っていうのはそういうものですよ。特に白昼夢なんてものは。でも気をつけて下さい。いくら白昼夢といっても、私がこうしてお姉さんに会いにきたのは事実なんですから」
「分かんないな。柊の言ってる意味が全然、分からない」
「目が覚めたら大部分は忘れてるはずですが、私と会ったことと、これから言うことだけを覚えていれば大丈夫なはずですよ」
柊の言葉は不思議で、私は素直な考えをそのまま言葉にしてしまう。
それこそが彼女のいう夢であることの証左なのかもしれない。
「もし、次に自分のことを地底人だと名乗る人物が現れたら気を付けて下さい。彼女は貴方に、残酷な真実を告げてしまうから」
音が聞こえた。
つい先程まで、一切の音が無かったこの空間に音が戻ってきた。
うるさい蝉の鳴き声、遠くの幹線道路を走るトラックのエンジン音、風に揺れる木の葉の音。
世界はこんなにも音に満ちているというのに、全くの無音の世界に私は疑問を抱かずにいた。
気がつくと、柊の姿はない。
それどころか、腰を下ろして、母の墓跡で手を合わせていた格好のままだ。
ということは、柊の言う通りあれは夢だったのだろう。
恐ろしい話ではあるが、私は夏の日差しにやられて白昼夢なんてものを見てしまったらしい。
慌ててスマホで時刻を確認すると、まだ墓地について十数分程度しか経っていない。となると、墓前で白昼夢を見ていた時間もほんの数秒から数十秒の出来事だったのだろう。
「……」
いくらなんでも、墓参りの最中に夢を見てしまうなんて。余程疲れてしまっているのか。
「地底人……ねぇ」
失笑を誘うような滑稽なその単語に、私は僅かながら既視感があった。
すっかり忘れていたが、つい最近も、似たような夢を見た記憶がある。
あれはいつのことだったか。逡巡していると、指の隙間から落ちていく砂のように、白昼夢の内容すら、朧げなものとなってしまった。
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