第三話 私の罪を愛する者へ ①
今日は珍しくスポーツドリンクを買った。
意識している訳ではないが、喉を潤したそれが何となく懐かしく感じたことに私は驚いた。
元々好きだった訳ではないが、避けていた訳でもない。
運動も体育以外でする訳でもない。
要するに、自然とスポーツドリンクを欲する季節になってきたというだけだ。
梅雨は終わって、夏が始まっていた。
なけなしの貯金を崩してスクーターの免許をとったのは正解だった。
私のバイト先で、スクーターに乗れると僅かながら時給が上がるのだ。
スクーターの免許取得にかかった費用も、二ヶ月働けば十分に元が取れる計算だ。
そんな訳で、期末テストが終わり、夏休みの直前の土曜日の今日も私はバイトに精を出していた。
テスト期間をスクーターの免許取得に費やしたために、成績は壊滅的ではあったが何とか補習だけは免れたため、夏休みはたっぷりバイトができると思うと自然と口角が上がる。
欲しかった圧力鍋や新しい炊飯器を買うのだっていいし、流石に古すぎるスマホを買い換えるのもありだ。
そんな物欲に塗れた思考のまま、配達を終えた私が店に戻ると、同じバイト仲間の芳川さんがちょうど配達に出るタイミングだった。
「お疲れ様です」
「ん、おお戻ったんか。しかし道覚えるの早いな、俺なんかバイト始めた頃は迷ってばっかだったぞ」
大学三年生の芳川さんは、これから配達するピザをスクーターの後部に仕舞い込んでから私の方を見た。
「無趣味ですからね、散歩ばかりしてしまうんですよ。それで、自然と覚えたのかもしれません」
「散歩が趣味の女子高生ってのは渋いな。ああ、それと今日は西野も出るみたいだから、そこまで急ぐ必要はないし事故に気をつけろよ」
そう言ってから軽く手をあげて芳川さんは走り出した。
スクーターのドリンクホルダーから自販機で買ったばかりのスポーツドリンクを一口飲んでから、私は店内に戻る。最早嗅ぐのも飽き飽きしている、ピザの匂いが私を迎え入れた。
高校に入学してすぐ、私がするべきこととは、バイト先を見つけることだった。
なるべく時給がよく、賄いで食費を浮かせそうなところが最低条件であったが、意外と高校生を雇ってくれるところは少なかった。
そんな中で見つけた今の宅配ピザ屋のバイトは、かなり条件が良かった。高校生も応募できるバイトの中では時給は良い方だったし、賄いもついてくる。
「椎本さん、戻ってきて早々悪いけどこれも配達頼める?」
調理担当のパートの高齢の女性が今しがた焼き上がったであろうピザと伝票を手渡す。
どうやら昼時で注文が増えたようだ。厨房は慌ただしくなっている。
しかしこんな暑い日にわざわざピザなんか頼まなくてもいいだろうに、と世間のピザ需要の高さに少々呆れながらも受け取った伝票の住所をスマホに打ち込みながらスクーターの元へ戻る。
「………なんか、見たことあるような」
というよりも、注文客の苗字に非常に見覚えがあった。
何の因果か偶然か、と一人で軽く笑いながら私は客先の住所を改めて確認するまでもなく、スクーターを走らせた。
そういえば、毎朝登校時に来てはいるものの、庭の門扉を超えて中まで入るのは月下美人を見に行った時以来か。
あの時の江月は少し変だった。
何が変なのかと具体的な回答を求められれば答えに窮してしまうが、どこかいつもと違ったような気がした。
明らかに建物の施工時期とはズレた時代に取り付けられたカメラ付きのインターホンを押すと直ぐに甲高い女性の声が応対した。
「ピザロットです。ご注文の品お届けに参りました」
友人の家といえどもバイト中に砕けた話し方をするような度量も無ければ、人生における気楽さを感じ取れている訳でもない私は当然ながら事務的な対応に徹する。
恐らく、インターホンに出たのが江月だとしても、私は同様の態度を取ったのだろう。
江月の母だろうか、それにしては声が若い気もしたが、三人家族と言っていたので、十中八九母親なのだろう。
直ぐに声の主は玄関までやってきた。
直前までの私の予想は外れたようだ。高校生の母親にはとても見えない若い女性だったからだ。
大学生だろうか。
もしかしたら社会人なのかもしれない。要するに二十歳前後の見た目だ。
縁の細い眼鏡の奥の目は、少し目尻が垂れ下がっていて、そこが江月に少し似ていた。
「幾らでしたっけ?」
ジャージ姿のラフな格好の彼女は、気怠げな声で長財布を開きながらそう問う。
「えと、2850円です」
「あ……っと、すいません、ちょっくら待っててくれます?」
江月の姉と思しき女性は、少し気恥ずかしそうに言うと、振り返って廊下の奥に向かって大声を出した。
「若菜ー!ちょっとお金貸してー」
「ピザ届いたの?テーブルに父さんが置いてったお金があるよ」
江月(姉)の呼びかけに、廊下の突き当たりの扉からエプロン姿の江月が出てくる。
江月はパタパタとスリッパを鳴らしながら、父親が残していったらしい数枚の千円札を手に近づいてくると、それを姉の方の江月に手渡した。
ここは、挨拶の一つでもしておくべきか。いや、向こうが気づいていないならそのまま去る方がスマートか。
なんてことを悩みながら、半ば無意識にポーチから釣り銭を手渡すと、スタッカートのような短い音が江月の口から飛び出した。
「えっ?椎本!?なんで?」
別に私が画策した訳ではないが、何となくドッキリに成功した様ないたずらっ子のような気分を味わいながら、多分下手くそな笑顔を浮かべた。
「バイトでたまたまね」
「何?若菜の友達なの?」
「うん、毎朝一緒に登校してる友達だよ」
江月は姉にそう説明すると、私の格好をマジマジと見た。
バイト先のピザ屋の制服は濃紺のツナギと同色のキャップで構成されていて、当然ながら今の私もそれを着用している。
そんな姿の私が珍しいのか、江月は頭の天辺から足の先まで凝視している。
「制服以外で会うのは、初めてかもね」
そう言ってから、江月の私服を初めて見たことに気づく。
月下美人を見た時も江月は制服から着替えずにいたし、彼女の部屋は整理整頓されているため、服が脱ぎ散らかっているということもなかった。
ジーパンにTシャツというラフな格好ではあるが、部屋着だというのに、私の部屋着のジャージ姿と比べたら何とオシャレなことか。
「ああ、そうだ、これサービス」
私は密かにバイト先から持ち出してきた炭酸飲料のペットボトルを渡す。一応配達先が友人の家という事で、なんとなく用意したものだ。
「いいの?これ、貰っちゃって?」
江月(姉)は申し訳なさそうに受け取ると、歳上らしい気の使い方で、私に確認した。
「ええ、本当はチラシのクーポンが必要ですけど、こっちでクーポン貰ったって処理しときますよ」
「……椎本、なんか悪いね」
「勤労学生にはこれくらいの役得があったっていいでしょ?」
「いやー悪いね、椎本さん。今度遊びに来なよ、それなりにもてなすからさ」
「ありがとうございます。じゃあ、そろそろ仕事に戻りますので……。江月も、また学校でね」
そう言ってヘルメットを被り直しながら踵を返した私の二の腕あたりを江月は掴む。
少し驚いて振り返ると、江月は何故か知らないが私よりも驚いたような顔をしていた。
「ね、椎本。明後日終業式でしょ?その後暇だったら、遊びに行かない?」
「え?あ、うん、分かった。予定空けておくよ。また後でチャット送るね」
半ば反射的に答えてしまったが、思えば江月と遊ぶ約束なんてしたのは初めてかも知れない。
月下美人を眺めたあの日は、突発的な誘いだったから、下手に約束の日まで時間があるというのは妙な居心地の悪さがあった。
それに気づいたのは店に戻る道中のことで、存外に明後日を楽しみにしている自分がいることに気づいたのは、バイトからの帰り道だった。
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