第二話 月下美人は満月を見た ②
小さい頃、手の甲を火傷したことがある。
何故火傷したのかは覚えていないが、転んで擦りむく膝の傷の痛みとは別種の感覚が印象的で、私の思い出せる一番古い記憶はそんな痛みの記憶になってしまった。
痕は残らなかったし、恐らく本当に軽い火傷だったのだろう。両親が慌てて冷たい水を手の甲に当てた時に痛みの大部分は引いたのだが、その後断続的に続いた不思議な感覚を今でもはっきりと思い出せる。
皮膚の上を覆っていた見えない膜が失われたように鋭敏になった触覚と、火傷した際の熱の余韻が皮膚の下に留まってしまったかのような疼き。
泣き叫ぶほど痛い訳でも、何かを中断してしまうほど痒い訳でもないのに、言葉に出来ない何かが纏わり付く感覚が、私は嫌いだった。
何故そんなことを思い出したのか。
火傷なんてここ数年負っていなかった、だからこそ、思い出したのだろう。
心の疼きが、幼い頃感じた火傷の疼きに似ていたのだ。
「待った?」
通学路の途中にあるコンビニを待ち合わせ場所にした私は、落ち着かない気持ちを無理やり抑え込んでイートインスペースでコーヒーを飲みながら椎本を待った。
放課後に会う椎本は凄く新鮮で、毎朝見ている姿と然程変わらないはずなのに、目が離せない。
「全然。むしろ早くてビックリした。近くにいたの?」
「駅前の喫茶店にね。それで、急にどうしたの?」
用件は伝えていなかった。
『今夜咲く月下美人の開花を一緒に見ない?』
果たしてこんな誘いを友人にする女子高生がいるだろうか。
朝顔を育成している小学生だって、咲く瞬間を見ようとは思わない。
こんな突拍子もない提案に、きっと椎本は私のことを変に思うのだろう。そう考えると、胸の辺りがギューっとして苦しくなる。
我が家に招待して偶然月下美人が咲くところを目撃したという流れならば多少は自然だろうか。
しかし目的もないのに家に誘うというのもどうなのだろう。それこそ仲が良ければ用事もなく遊びに行くというのは日常茶飯事なのだろうが、果たして私と椎本はそこまでの関係なのか。
ぐるぐると、ネガティブな結果ばかりを想像してしまい、うまく誘える気がしない。
「……ええと、なんか悩み事?」
多分険しい表情だったのだろう。椎本はどこか不安そうに訊く。
慌てて否定してから、意を決して椎本の顔を見る。
「あ…えっと、あのさ、今夜って暇だったりする?」
「なんかナンパされてる気分」
椎本は笑いながら言う。
あながち間違いではないのかもしれない。それを間違いと言い切れない自分が少し恐ろしい。
「暇だよ。何かするの?」
一頻り笑い終えた椎本は学校の自販機で売っているのを見かけたことのあるミネラルウォーターを一気に飲み干した。もし、私の知っている体育館前の自動販売機で買ったものなら、五百ミリのミネラルウォーターを半日かけて飲み終えたのだろう。
そのままレジ横のゴミ箱に投げ入れると、返答を待つように私の顔をじぃっと眺めた。
「よかったら、ウチに来ない?」
「江月の家?別にいいけど……、急にどうしたの?」
どうやら私の不自然で不要で不急な誘いを訝しんでいるようだ。
確かに、これまでは何となく一緒に登校するだけの仲だったのだ。それが急に家に招かれるとなれば多少は警戒するはずだ、私だってそうなる。
そうでなくても、椎本は誰かの家を訪ねるとか逆に自分の家に誘うだとかそういうことは苦手としているのだろう。
故に、一応は承諾したとも取れる「いいけど」の部分が、彼女にとって単なる
しかし、どちらにせよ、家に招く理由を言わなければならない。
そこまで考えたところで、未だ結論が出てない思考から個人主義的なシナプスが生まれ出たのだろうかと思うほどに、私の意思に反して私は私の思考の追いつかないままに口走った。
元来の他人と関わる煩わしさを避けてきたための対人関係の経験不足から来る混乱による判断能力の低下と、会話のテンポが崩れるまでの残り時間が差し迫っている焦燥感が、恐らくそんな言葉を引き出したのだろう。
即ち、
未だ世の中と未来に希望しかないと思い込んでいる幼子のように、或いは性善説を心の底から信じられるほどに恵まれた環境で育ってきた少女のように、無防備で無垢でいたいけなまでに愚直な言葉が、するりと私とは別の意思が発したかのように出てきたのだ。
「多分今夜、ウチの月下美人が咲くんだ。それの開花を一緒に見ようかな、って」
言い終えてから、私は叫びたくなる衝動に駆られた。何を口走っているんだ、と。
それでも言ってしまったものはしょうがない。異様に早くなった鼓動を抑えつけるように紙コップの残りのコーヒーを一息で飲み干した。
「月下美人……って、あの満月の夜にしか咲かないってやつ?サボテンの仲間だから日本じゃなかなか育てるの難しいって聞いてるけど、江月ってそんなのも育ててるんだ」
「そう、それ。どう?見に来ない?」
意外にも拒絶的な反応を示さなかったどころか、月下美人そのものに椎本は興味があるようだった。
だがはっきりとした返事は返さず、この空間で明確さを保ち続けたのは心臓の高鳴りだけであった。
「……江月の部屋も見てみたいし、いいよ」
興味を持たれるとは、好意を持たれていると同義なのだろうか。
興味と好意の因果関係については私には理解し難い煩雑さを伴っていて、それと同時にそれは輪郭のぼやけた関係性の浮き彫りにも思えた。
私の部屋を見たいという、なんてことない一言に、私はここまでグルグルと思考が渦の様にかき混ぜられるのは、何故だろう。
疑問と期待と諦念が混ざり合っているものがグラスに注がれていく。それら全てを飲み干せるのであれば、私はきっと、現実に呼応する私の心と真正面から向き合えるのだろうか。
一つだけ断言できることは。
まるで予定調和のようにゆっくりと花弁を開いた月下美人よりも、私の隣でそんな光景を眺めていた椎本の方が綺麗だったことだけだった。
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