第一話 地底人は空を見る ①

 他人に期待しなくなったのはいつからだろう。

 自分が期待に応えられるような大それた人間ではないのだから、他人に期待するというのは筋違いだが、それでもまだ遥か昔、誰かと遊ぶのも話すのも一切抵抗がなかった時代の私は、無根拠に他人を信じていた気がする。

 他人を信じるとか期待をするとか、一見リスキーに見える考え方を維持しながら成長していくというのが多分健全な育ち方なのだろう。それをリスキーだと捉えてしまうのが、健全ではない証拠なのかもしれない。

 詳しくないがきっとキリストさんもブッダさんもそういう健全な生き方を推奨しているはずだ。恐らく私には理解できないような難解な言葉で、そういう生き方を説いているのだろう。

 だからといって、私はこの生き方を変えようとは思わない。

 私は臆病者だから、それが例え正しかろうと人道的だろうと、私の生きている世界でその生き方を選択するのは怖くて辛い未来が待っているような気がしてならないのだ。

 神様の言葉通りに生きていくだけでは、どうにもならない時代なんだ、と言い訳しながら今日も私は醜い心と生きていく。

 多分、江月も同じぐらい、この世界を警戒しているはずだ。

 だから、隣にいると気が楽なのかもしれない。



「よっす、おはよ」

 体育会系の男子みたいな挨拶で江月は庭先で、私を待っていた。

 あれから昼食を一緒にしたことはないが、何故だか一緒に登校するのがお決まりになっていた。その癖学校内ではあまり話さない。廊下ですれ違った時に軽く挨拶するくらいだし、江月がクラスメイトの友人と歩いている時は目を合わせるだけだ。

 当然放課後も共に行動することはない。彼女はきっと友人と遊んでいるのだろうし、それを邪魔する気もない。

 私は街を一人でブラブラしているか、バイトに精を出しているかのどっちかで、暇といえば暇なのだが、一人が気楽なのでこちらから誘おうとも思わなかった。

「梅雨なのに全然雨降らないなぁ」

 と、残念そうに空を見上げる江月は玄関のカギを閉めながら折り畳み傘を鞄に仕舞い込む。

 雨が好きなのは珍しい、と私は江月の言葉にそう感じた。基本インドアな私でも雨はあまり好きじゃないのだから、大抵の人は雨を嫌うのだと思っていた。

 冷夏だとか暖冬だとかを残念に思う気持ちと同種のものなのだろうか。

 それならば理解はできる、ただ、同意はできない。

 夏は涼しければ涼しい程、冬は暖かければ暖かい程良いと私は思っている。農家の皆さんには申し訳ないけど。

 そんな風に思ったことを口にすると、江月はむしろこちらが意外だといった様子で答える。

「そう?暑い日にクーラーの効いた部屋でアイス食べてぼーっとするのも、寒い日に暖房の効いた部屋でアイス食べてぼーっとするのも最高じゃない?」

 どの道アイス食べてぼーっとしているだけなのか。

 しかしそれならば多少の同意はできる。

 江月は結局のところ環境の整った部屋で余暇を持て余すのが好きなのだろう。

 予定のない休日ほど心躍る日はない、と言ってのける性格なんだろうなぁ。

 私はどうなんだろう、と逡巡する。

 きっと私は江月より僅かに天邪鬼な性格なんだろうな。

 予定がないのは寂しいが、予定があるのは面倒くさい。

 江月の家から学校まで続く道の途中の会話はこんな風に他愛のないものが多い。

 身のある会話を毎日のようにしている高校生とは一体どんな学生生活を送っているのか問いたくなるけど。



 江月が心待ちにしていた雨が降り始めたのは、午後の授業が始まってすぐだった。

 もし江月の雨の降らないことを残念がっていた理由が、梅雨という季節を堪能したいというところから発出されている感情であるならば、教室の窓を打ちつけている雨は不合格だろう。

 しとしとと表現されるような雨ではなく、横殴りの嵐のような激しいものだったからだ。

 これではどちらかといえば、八月九月の台風シーズンを想起させてしまう。少なくともこの雨を見て紫陽花が雨に濡れる情景を思い描く人は皆無だろう。

 古文の教師が雨を眺めて思いついたのか、雨に関連した和歌を黒板に書いて解説しているが、夏休み前の期末試験まで残りひと月を切ったこの段階で、教師の突飛な思いつきに付き合う気の良い生徒などいるはずもなく、クラスメイト達は板書の手を止め、しばしの休憩を堪能している。

 いや、一人だけノートに黒板の内容を書き写している真面目なやつがいた。

 確か、須磨美雪すまみゆきといったか。

 必要最低限のコミュニケーション能力しか持ち合わせていない私(と、自負しているが、もしかしたらその必要最低限にすら達していないのかもしれない)が珍しくそのクラスメイトの名前を覚えていたのは、入学して直ぐの頃、席が真後ろだったという理由で、恐ろしい頻度で話しかけられていたからである。

 授業の合間や移動教室の移動中など、これでもかという位に私に付き纏っていた。

 入学してから最初の一週間はそんな訳で、私にとっては辟易してしまう程に気疲れのする期間でもあった。

 私に一週間もの間話しかけ続けるバイタリティがあるので当然といえば当然だが、気づくと四名ほどのグループをクラス内で形成していて、私を気にかけることもなくなった。

 不真面目というほどではなくとも、そこまで真面目な性格とも思っていなかったので少し驚きはしたが、教私の右斜前の席でせっせとノートを取る須磨さんを一瞥いちべつしただけで、私は直ぐに教室の窓外に気持ちを移した。

 傘を持ってきてないことを思い出して、私は降水確率を見なかった今朝の自分を殴りたくなった。



 どうやら十六時を超えると雨が上がるらしい。

 スマホで天気予報を調べた私は、雨が上がるまで校内で暇をつぶすことを選択した。

 放課後はいつも一目散に帰宅していたので、昼間とは違う夕刻の校内の雰囲気は私にとって新鮮ではある。

 一度も利用したことのない図書室や、選択授業では音楽を選択しているので利用することのない美術室など様々な場所を観光気分で見て回ったが、生憎私の通う高校は広くない。三十分もすれば大体見終わってしまい、暇を持て余すこととなってしまった。

 自分の席でスマホを弄りながら時間を潰すか、と現代っ子らしい結論に達した私が教室に戻った時、コミュニケーションを不得手する私にとっては非常に厳しい光景が飛び込んできた。

 いや多少コミュニケーションに自信があろうとも、こればかりは応対に窮するのではないだろうか。

 クラスメイトが放課後の教室で一人、さめざめと泣いていたらどうする?

 もしこれが小学校の時にあった道徳の授業だとかならば、品行方正を装って「優しく声をかける」と答えるのがベターなのだろうけど。

 つまり、私が遭遇したのはそういう場面であった。もしかしたら私の人生の中でも数少ない道徳の授業で得た知識の使い所なのかもしれない。

 しかしこれは現実で、付け加えるならば私は口下手で面倒臭がり。クラスメイトが泣いている光景を目にしても、抱いた感想は泣いているクラスメイトへの憐憫だとか心配だとかではなく、頼むから私の存在に気づかないでくれ、という浅ましいものであった。

 見なかったことにして踵を返すというのも一つの手だ。だが、私の鞄は教室の奥にあるし、なにより教室の引き戸を大きな音を立てて開けてしまった。私に気付いていないということはないだろう。

 私は諦めて、素知らぬ顔で鞄を取ることに決めた。声をかけないで、気づかないフリをしてやるのも一種の気遣いだ。

 そういうことにして、私は泣いているクラスメイトの方を不自然なほどに見向きもせず自身の机へと向かったが、机の上に置きっぱなしのリュックを掴んだタイミングで私はふと気づいた。

 泣いているクラスメイトは、机の上に顔を伏せていて誰か良くわからなかったが、間違いなく須磨美雪の席で泣いている。今思えば髪の長さも彼女に似ていた。

 須磨が泣いているのだろうか、とつい確認してみたくなり振り返ると、目を腫らした須磨がこっちを見ていた。

「あ…、えっと……、ごめん。すぐ出ていくから」

「椎本さん、だったよね。私の方こそごめん。気、使わせちゃったよね。気にしないで」

 目を真っ赤にしている。声も震わせていて、涙で化粧が崩れている。

 流石に学校なので派手な化粧はしていないようだが、それでもコンシーラーが涙で滲んでしまって悲惨なことになっている。

 人間関係に対して薄情な考え方を待っているくせに、それをはっきりと表に出さない私はそれこそ意志薄弱なのだろう。

 私は一応の礼儀として、「何があったの?大丈夫?」と聞いてみた。

 ここで彼女の言葉を額面通りに受け取って帰宅してしまえば、今日のところは煩わしいことは何もなく帰宅することができる。

 だが、彼女の性格を読み切れていない今、このまま帰ってしまえば、彼女が友人に私の悪評を流す可能性だってあるのだ。そうなれば後々トラブルの種になりかねない。

 リスクとリターンを天秤にかけた結果の言葉ではあったが、須磨という生徒はどうやら素直な性格らしい。

 私の言葉を聞いた途端、身を乗り出して「ね、相談、乗ってくれないかな」と言い出した。

 要するに気丈に振る舞う須磨が私の存在を歯牙にも掛けず、そのまま私を解放してくれるという淡い期待もとい甘い予測は、わずか数秒で夭折ようせつした訳だ。


 そして外を見ると雨脚は弱くなっていた。

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