プロローグ 2

 小さい頃、私は地底人を見たことがある。

 これは不思議系を気取りたい頭が残念な子という訳ではなく、地底人自身が自分を地底人だと言ったのは事実なのだからしょうがない。

 少なくとも、当時の私は彼女を地底人だと心の底から信じていたし、高校一年生になった今でももしかしたらとか万が一だとかそういった副詞を用いてまで、彼女が地底人なのだと完全に否定出来ずにいる。

 地底人は、土気色の肌と大きな剥き出しの目玉を持つ気味の悪い存在などではなかった。それどころか、幼い私にとって彼女こそが目指すべき女性の理想像として映っていた。

 綺麗だった。なのに、気取っていなかった。長い髪から香るシャンプーの匂いは初めて嗅ぐ香りだったのに、何となく大人の女性の匂いだと思ったものだ。

 仕草やら容姿やら全てに憧れたものだが、何より好きだったのは、子供の私の話も大真面目に聞いてくれたことや、まだ小学生に上がりたての私を一人の人間として扱ってくれたという点なのかもしれない。

 地底人のお姉さん、と私が呼んでいたのだが、その地底人のお姉さんは植物が好きだった。私の家にある広い庭を見ると、凄く嬉しそうにそのとき咲いていた春の花々を私の手を引いて眺めていたのを覚えている。

 だからなのだろうか。

 私は子供の時からずっと、庭の手入れを欠かさなかった。特に私自身草花が特別好きだというわけでもないのに、毎朝の土いじりだけは継続して今も続けている。





 初めて彼女に気づいたのは、確かゴールデンウィーク明けだったか。

 良い天気だったので、日課の水撒きを終えた後、二階の自室の窓を開けて部屋の換気をしようとした時、生垣の向こうで立ち止まって庭を見ている女生徒を見た。

 特別美しい庭という訳でもないが、とにかく植えてある植物の種類は多いので近所の高齢の奥様方が庭を覗き込むことは多い。彼女達は風情のあるものが好きだが、それ以上にそれを切り口に世間話を始めるのも好きなので捕まってしまうと長い話を作り笑いで聞き流す羽目になる。

 という訳で庭に目を奪われる人というのは実はそんなに珍しい訳でもないのだが、同じ高校の制服を着ているというところが気になった。

 射干玉ぬばたまの様な艶やかな真っ黒い髪。日本人の髪色は大抵が黒だが、彼女の色と比べると普通の黒髪は何か別の色が混ざり込んでいる様な気さえしてしまうほどの美しく光沢のある黒い髪が春の風に靡いていた。

 高校生にしては少し低めの背丈ではあるが、怜悧な表情が良く似合う顔立ちだ。どこかの小説で読んだ、涼しく刺すような美しさ、とはこういうことを言うのだろうか、とも思った。

 庭を見つめるその目つきは、その容姿と相まって地底人のお姉さんを想起させた。

 きっかり五分間庭を眺めてから自転車に跨って去っていく彼女を見送ってから、随分とまぁ早い時間に登校するものだと感心した。

 よほど真面目な生徒なのだろう。他人事のようにあくびを噛み締めてから、バターロールを飲み込んで階下に降りると、姉がモゾモゾとソファの上で動いている。

 対比するわけではないが、大学生になってから毎日のように朝方に帰宅し午前中丸々をリビングで寝て過ごす我が姉と比べると彼女のなんて真面目なことか。

 大学進学した頃は彼氏を連れてくるのではないかと戦々恐々であった父も、今ではとっとと彼氏を作ってその怠惰な生活を改善しろと小言を言う始末だ。

 まぁ、庭を見ていたあの子とまでとは言わないが、私ももう少し真面目な優等生を演じてみるかなと何となく決意したのが、初めて彼女を見た時に覚えていることだった。

 だが、一度意識すれば視界に入ってしまうもので、彼女はあの日だけでなく毎日決まった時間に庭を眺めることを知った。庭を鑑賞している間に自動販売機で買ったであろう暖かいココアやお茶を飲んでいる時もあれば、イヤホンで音楽を聴いている時もある。

 彼女の名前が椎本楓と知ったのは偶然だった。

 同じクラスの塚本が彼女と同じ中学出身で、たまたま廊下ですれ違ったときに、話しかける訳でもなく、「あれ、椎本って同じ学校だったんだ」と呟いたのがきっかけだった。

「知り合い?」

 腕相撲で負けた方が購買のパンを奢る、という女子らしくない勝負で矢嶋に負けた塚本に付き合って私も飲み物を買いに向かう途中、ここ数週間毎朝見ていた彼女の名前が前触れなく判明した。

 私の問いかけに塚本は「うん」と短く返したあと、直ぐに否定した。

「あ、いや、知り合いではないかな。多分向こうは私のこと覚えてないと思うし。彼女は椎本楓、中学じゃ結構な有名人なんだよ」

「そうなんだ、部活とかで?」

「いやいや。なんて言うのかな、被害者的な意味で?」

 言葉を濁すように塚本は言うので、私は深くは聞かないことにした。被害者という不穏なワードが、なんとなくだが、聞いたら彼女が二度と私の家の庭に来てくれないような気がしたからだ。 



 しかし、顔も知って名前も知ったとなれば、興味が湧くのは自明の理だ。同じ学年で隣のクラスと知ってからは、彼女と校内ですれ違う度に目で追うようになった。

 どうやら友人は少ないようで、誰かと一緒にいるところを見たことがない。それが原因か分からないが、校内で見かける椎本は寂しげで儚げだった。なにか、心無い言葉でも投げようものなら、逆に私が罪悪感に押しつぶされそうな。

 そういう不安定さが、どうしても私の家の庭を眺めている時の椎本の印象と一致しなかった。

 穏やかな表情だった。庭に咲く花々を眺めている時の椎本は、穏やかで優しそうで、華やかだった。

 眺めているだけで、良かったはずだったのに。我が家の庭に咲く花々を眺めるのが好きな名前も知らない同級生で終わるはずの関係性だったはずなのに。

 寂しそうな顔を見たくなくて、私はつい、触れてしまおうと考えてしまったのだった。



 いつもより早く朝食を済ませて、いつもより早く庭の手入れを始めた。

 鞄は通学用自転車のカゴに既に入れていて、直ぐにでも登校する準備は整えていた。しかし、いつもよりたった十数分早起きしただけなのに、随分と眠い。

 習慣とは恐ろしいものだ。少しでもこうしてルーティーンを崩すとすぐに身体も普通から逸脱していく。

 あくびを噛み締め、散水用ホースを手に取り一通り水をやり終える。まだ椎本は姿を現さない。少し早過ぎたのだろうか。

 ついでにレンガの小道でも掃除するかなと思案した辺りで、妙に快調なカラカラという音が聞こえてきた。

 音のする方に視線を送ると、生垣の向こうで椎本が少し驚いた様子でこちらを見ていた。

 私はつい嬉しくなり、笑みを浮かべながら彼女のもとへ向かった。



 会話してみて分かったのは、椎本は非常に落ち着いた人間だということだ。

 趣味嗜好は私とは少し異なるが、ものの考え方は私と似ていると思う。

 具体的にどこがどう似ているのか、言葉には出来ないが、彼女との会話は心地良かった。

 私にだって同年代と比べて少ないとはいえ友人の一人や二人いるが、彼女達との会話は苦痛ではないが半ば無理に会話を合わせている時がある。なんとなくだが、彼女達とは感覚がずれているような気がするのだ。

 勿論一緒にいるのは好きだし、会話をしていても楽しい。だけど、長時間は一緒にいられない。少しずつ明るみに出てくる私と彼女達の間にある溝を飛び越える度に疲れを感じるのだ。

 だけど、そんな溝を椎本との会話には感じられなかった。

 しかし、それは一方的な思いで、椎本は私との会話の中で、私に対して溝を感じていたのかもしれない。

 そう考えると少しだけ不安になる。

 だから私は、少しだけ彼女の側に歩み寄る。それはきっと、普通の人ならとても自然なことで意識もせずにやってのけるのかもしれない。

 だが、私にとって、それは震えるほど勇気のいることであった。


「友達になった記念に、お昼一緒にどうかな?」


 なんてことない、普通の昼の誘いのようなメッセージを送った後、既読の文字が表れる。

 私は急に送ったメッセージが味気のないものに見えてしまい、慌てて画像を送る。


「分かった。食堂で待ってる」

 直ぐにそっけない返事が来る。

 彼女らしい飾り気のない文章がかえって私を安心させた。

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