支え

「山に登りたい」


 彼女がそんな事を言い始めたのはいつだったか。思えば、腐臭漂う病室で弱々しく笑う彼女が初めて口にした願いだった。

 一緒に行こう。なんて言うのは簡単だった。彼女の精神のためにも、言い出すべきだったろう。


「…」


 でも、言えなかった。口が開かなかった。奇病を患った気持ちも何も理解できない私に取っては、発する言葉全てが無責任に思えたのだ。


「…無理、だよね。わかってるよ」


 人形を抱きしめ無理に作った表情。それすら維持できずに、彼女は虚な視線を自身の両足に落とす。痛みも何も無く、少しずつ形を失う脚。大量の膿を垂れ流しながら腐り落ちていく病。腐食を止める術も、治す方法も、未だ分かっていない。


「でも私、歩きたいよ…もっと沢山の景色を見たかったよ…この子にも、見せたい…!」


 蹲るように上体を丸め表情を隠される。ずっと大事にしていた人形を異音が鳴る程強く抱きしめながら。行き場のない憤りをぶつける音が、静かな病室の中で主張をする。

 消えつつあるふくらはぎをそっと、出来るだけ優しく撫でる。膝から下の感覚はもうないのだろう、彼女はピクリとも反応を示さなかった。

 

「どうして……どうして私だけ…ッ!学校にも行けない!せっかく貴女と同じ学校に受かったのに!」


 絞り出す苦悶の嗚咽。どう声をかければ良いのか。どうすれば、事を荒立てずに落ち着かせられるのか。それを考えられるほど、私には余裕も経験もなかった。


「なんで、何もッ言わないの…!もういいよっ!さっさと帰って!!!」


 叩きつけられる人形。絶望しきった絶叫。“やめて、暴れないで”と癇癪を押さえ込もうにも、細く痛ましい姿を見れば力など入るわけがない。

 床に投げ捨てられた人形を拾い上げる。華奢な首が衝撃でへし折れていた。ガラスの目玉にもヒビが入っている。

 5分ほど爆発して落ち着いたのであろう、ようやく彼女が静かになった。潤んだ目で虚空を見つめる彼女の枕元に座り。

 静かに、抱きしめた。


「…何」


 …ごめん。今の私にはこれくらいしか出来ない。


「もういいよこれ以上ここにいても、また私、癇癪起こすし。制服汚れるよ、早く離れて」


 …嫌だ。まだ私の思いをぶつけてない。


 泣き疲れ痙攣する彼女を、背をさすり落ち着かせる。落ち着いて言葉を選び、重ねていく。


 …今の、私にはどうすることも出来ない。でも、約束する。私は、必ずあなたのための脚になる。

 

 こんなの、虚言だ。医者が皆見捨てた奇病なのに、平凡な高校生がどうこう出来るはずがない。無責任だって分かっているのに。自己保身のためだけに、嘘で安心を生み出している。


「……じゃ、ぁさ…この子も、山に、連れていける?」


 …当然さ、一緒にどんな山も、富士山だって一緒に登れるよ。そうだ、初日の出を見に行こう!2人で見に行く景色は、きっととても綺麗で思い出に残るよ!


 切れることが分かりきった蜘蛛の糸。でも、私はこの垂らす行為自体に、救いを感じてしまっていた。

 なのに、彼女は。こんな見え透いた釣り針にも目を輝かせ食いつく。


「わかった。約束、だよ?絶対行こうね。絶対、富士山に日の出を見に行こうね…!」


…あぁ。絶対だよ。人生最高の年越しにしてあげるから!
















 彼女の死亡を告げられたのは、それから1ヶ月後だった。


………

……


 元旦。

 冷ややかに凍てついた空気が山頂を支配している。手頃な岩場に腰を下ろし東の空を望む。日の出まで、あと10分程度だろうか。私は鞄から人形を取り出すと、私の膝の上で座らせる。


 …ごめん。遅くなってしまったね。


 色褪せた人形は何も答えない。果たされなかった約束の地。あの約束の日から20年。結局私は、彼女の脚に、なれなかった。


「先生ー!こんな隅っこにいたんですか!」


 背後から明るい叫び声が聞こえてきた。振り返れば、硬い足音を鳴らし軽快に駆け寄ってくる少女の姿が見える。


…だいぶ調子良さそうだね。義足もいい感じかい?

「めっちゃ調子いい!先生のおかげだよ!」


 そう笑顔で長ズボンで隠した義足を見せつける。滴る膿を溜めておくペットボトルはまだ三分の一程度しか溜まっていない。これならコテージまでは保つだろう。極限まで軽く作って正解だった。

 

…ちゃんと隠しておきない。授業中でも見せびらかしちゃダメよ?


 この奇病専用の義足を開発するのに、10年掛かった。未だこの奇病は治らない。だけど、適切な処置を施し義足で膿を取り除き続ければ、普通の人と変わらない程度の寿命と生活は保証出来る。

 この義足を1番渡したかった人はもういない。それでも今は、一人でも多くの幼い奇病患者を救うため、日夜改良と教育に励んでいられる。

 少女が不思議そうな顔で私と人形を交互に覗き込む。どうも無意識のうちに人形の頭を撫でていたらしい。


「その撫でてる人形さんどうしたの?可愛い!」

 …好きかい?この子

「うん!とっても髪がきれい!でもお洋服は変えてあげたいなぁ」




 …良ければ、登頂祝いにあげようか?

「いいの!?」

…頑張ったご褒美だよ。その代わり、約束してほしい。この子と一緒に、沢山の景色を見にいってほしい。

「一緒に…?」

…先生には沢山の生徒達がいるからね。この子との約束が果たせないんだ。だからこそ、君のその新しい脚で、この広い世界を共に歩んでいってほしい。


 約束、出来るね?そう問いかける。幼いながらも暫しの葛藤をした少女は、やがて神妙な面持ちで頷くと両手で人形を受け取った。

 これで、良かったのだろうか。それは未だ私にはわからない。だが、きっとこの子は、私ではたどり着けないような景色を見てくれるだろう。

 にわかに歓声が上がる。それは、新年初の光が、暖かく世界を包み込む瞬間であった。この景色はきっと、この子達の良き思い出となっていくのだろう。これから紡がれる、いくつものアルバムの、最初の一枚として。



長ズボン ペットボトル 西洋人形

 

 

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