生きた星

 星空が見たい


 それが僕のたった一つの夢だった。かつて大地に住んでいた大人達は皆


「昔の夜空は綺麗だった」


 なんていうけれど。何しろ雨が降り頻る陰鬱な空しか知らない僕達方舟世代にとっては、夜空に浪漫や美しさを見出す、なんて暇はなかった。


「星空?そんな物が見たいの?」


 舷側げんそくに立つ女性が疑問を投げかける。彼女は気がついた時にはそこに立っていた。ここ数ヶ月他の方舟と接触した覚えは無かったのだが、一体何処から入り込んだのか誰も知らない。何を考えているのか、何を求めているのかまるでわからないこの女に、どうしてあんな話をしたのか。まるで覚えていないが、返事だけは鮮明に記憶していた。


「いいよ、今度見せてあげる」


「でもそのかわり。私の願いも叶えてね?」


 本当に守られるのかわからない約束。でも、その胡乱うろんな言い草が、果たされなかった約束と共にやけに脳裏に焼き付いている。

 あの日、彼女は忽然と消えたのだ。大人達に「あんなタヌキの様な女放っておけ」と諭されるまで、泣きべそで船中探し回ったのに痕跡すら跡形も無く去ってしまったのだ。

 以来、僕はずっとその女を探している。



 ずっと、探していた。




 ふと夢から覚める。どこか小さな岩場にまで流されていたようだ。体を起こせば記憶がフラッシュバックする。



 燃え上がる方舟達。次々と海へ飛び込む仲間。

 遠くに映るは僅かに輝く青い光。煌めく砲火は何人たりともこの青空へは寄せ付けまいと、片端から海上に炎の渦を生む。やがて僕らの方舟も炎と暴風雨を前に敗れ──



 辛うじて生き延びたが物資も食糧も無い。命綱は淡々と降りしきる雨だけ。だがそれは、死を僅かに先送りしているに過ぎない。

 身を起こす力すら無い。あの戦いからどれ程経ったのか皆目検討もつかない。死が這い寄る様を肌身で感じ取れる。寒い。

 寒い……








 頬に触れる温かな感触。目が覚めると、見覚えのある青く澄んだ瞳が僕を覗き込んでいた。


「久しぶり。元気にしてた?」


 数年ぶりに出会った彼女は、記憶と何も変わらない美麗な人だった。

 雨が降り頻る中、荒涼とした海岸に何故彼女がいるのか。そんな疑問は、見知った人と出会えた安心感と、頭を撫でられあやされる温もりで塗り潰される。


「夢を叶えに来たよ」


 ふわりと体が軽くなる。全身の痛みが引いていき両足に力が漲る。気がつけば雨が止んでいた。未だ空は曇天であり夜間の視界はゼロに等しい。それでも、不快な雨に打たれないなんて夢の様だ。


「ほら。こっちを見て」


 空へと気を惹かれていた僕を彼女が引き戻す。


「雲は晴らせないけど。星空はほら、ここに」



 視線を空から海へと落とす。



 そこに広がっていたのは、真っ黒な海が光り輝く姿であった。波に揺れ、光の粒達が浮き沈みを繰り返している。


「蛍烏賊を集めるにも時間が掛かってね。遅くなっちゃった」


 イカ達の織りなす星屑。かつて空に心を奪われ空を取り戻そうと奮闘してきた大人達の気持ちが、今なら理解できる。


「さて。次は、私の番だね」


 夜明けが近づく。静かにしていた彼女が唐突に口を開き、身じろぎする間もなく唇を奪われた。磯と甘い香りが入り混じる。


「さぁ。一緒に来てもらうよ」


 再び雨が降り始めた中、徐々に海へと歩を進める。足が勝手に進む度、恍惚とした快楽が産まれる。気がつけば腰から下が鱗と鰭に包まれていく。


「大丈夫。身を委ねて。蕩かしてあげるから」

 

 そうか。僕の求めた星空は此処にある。この空に飲み込まれるのなら、きっと僕の本望であるのだろう。足が一つに纏るが、もう陸に登る必要もない。

 彼女に抱かれ頭の先まで星空に沈む。生きた星々に囲まれる。

 幸せだ。この幸福意外、何もいらない。僕は彼女に導かれるまま酩酊する意識を手放し、眼下に広がる深淵の夜空へと堕ちていく様を、肌で感じ取っていた。






お題:夜空 願い たぬき

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る