No.29 - 接近
カプセルの中に横たわるマコトの顔は穏やかに見える。ガラス上に設置されたバイタルチェッカーは緩やかなペースで電子音を立て、彼の体に異常がないことを伝えていた。
「目立った外傷も見当たりませんし問題はなさそうです。単に気を失っているだけのようですから、そんなに心配は要らないでしょう」
「え、あ……はい。分かりました……」
看護師はソフィアにそう言って、病室を仕切るカーテンの留め具を外し、カーテンを押しのけ足早に出て行った。一人残された彼女は小さくお辞儀をして、もう一度彼の様子を覗き込むが、特に変わった様子もなく眠りについている。看護師が閉め忘れていったカーテンの向こう側には、同じようにカーテンで囲われた救護カプセルが並んでいて、ほとんどに入室中を示すランプが点いていた。隙間から頭だけ出して見てみると、廊下からは医療班員達が歩き回る慌ただしい様子が見て取れる。
「どうしちゃったんだろう、ホント……」
ソフィアは溜息をつきながらカーテンの内側に戻って椅子に一度座ったが、すぐにハッとして立ち上がった。鼻から息を吸い込んで両手で頬を叩き、顔を上げてふぅっと息を大きく吐き出す。
「ダメダメ、暗くなってちゃ。一旦艦橋に戻らないと」
そう言って彼女はカーテンの隙間から飛び出そうとし、一旦思いとどまってカプセルの方へ向き直った。目を覚ましたマコトへ向けてメッセージを残しておく為、彼女はカプセルに付属している端末を操作してアプリを立ち上げる。
「そうね……〝艦橋へ戻ってます、安静にしててください。ソフィア〟っと……」
きちんとメッセージが保存されたことを確認してから、ソフィアはもう一度カプセルの中へ目を向けた時――
「それじゃ、私行ってきますの……で……」
――カプセルの中からは、眠っているはずのマコトの視線が彼女へと向けられていた。
◇◆◇
「――現在まで、あの物体に接近できたものはおらず……我々からは手出しができません」
モニター越しに見る黒い球体は、今もなお機関室に座し、周囲を拒絶している。シドが説明を終えた後、全員が無言で流れ続ける中継映像を見つめるばかりで、重苦しい雰囲気が立ち込めていた。漂ってくる鉄くずを吸収しては自身の周りに向けて吐き出し続ける球体の姿だけが映っており、乗組員の姿は映らない。その場の空気が止まってしまったかと錯覚するほどの静寂が、艦橋に満ちていた。
「いっそ爆破してみますか。埒が明かないからもうしょうがないでしょ」
そんな空気を破ろうとしてか、戦闘班長の青年が声を上げて立ち上がる。無理して笑いを浮かべていた彼に追随するような者は現れず、相変わらず静かな艦橋の様子に勢いを失って、ゆっくり腰を降ろした。無言の間をどう解消しようかとシドが思案していると、艦長・サコミズが口を開いた。
「あの球体の呼び名は決まっているのか」
重々しい空気の中から出たそんな質問に、ふっと場の空気が緩んだのをシドは感じた。口角を小さく持ち上げ頬を緩ませながらシドはその質問に答える。
「機関長の提案ですが、作業に当たる乗組員たちはあれを〝マークツー〟と呼んでいるそうです」
「〝マークツー〟?」
サコミズはシドの言葉を繰り返して聞き返す。その言葉が本来示すような属性をあの球体が持っているとは考えずらいのか、他の乗組員たちも興味深げにシドの方へと視線を向けていた。
「『エンジンが新しくなったから』が理由だと聞いています。深い意味はないそうですが、名前がないよりはマシだろうとのことです」
「そうか、分かった。以後対象をマークツーと呼称する」
あまりに安直な命名規則に、呆れが混じった溜息がそこかしこで漏れ出る。大真面目な顔でそう告げたサコミズの様子に、何人かはギャップに耐えかね、くつくつと笑ってしまっていた。サコミズはその様子を見て満足そうに一つ頷いてから、顔を引き締め、咳払いをして場を落ち着かせてから話し始める。
「現時点で我々はマークツーから艦内の全エネルギー消費を賄っている状態だ。排除はするべきではない」
場の空気に漂っていた重苦しい雰囲気が和らぎ、むしろ前向きな緊張感が艦橋にいる者の気を引き締める。次の議題へと映るために、シドが中継映像を切り替えようとしたその時、モニターの向こう側で大きな声が上がった。
『おい! ちょっと待て! 待てったら!』
ハッとして視線を移すと、先ほどまではマークツーしか映っていなかった映像に、二つの人影が映りこんでいる。
一人は、先ほどまでシドが会話していた機関長だった。分厚い船外服を着用して、通路上を歩いている。
そしてもう一人は、救護カプセルの中で眠っていたマコトだった。人類が生存できないはずの船外空間にも関わらず、生身で平然と立っていた。血が沸騰することもなく、窒息することもなく、苦しみをあらわにすることもなく、無表情に、ただ目の前の漆黒の球体へと一歩一歩ゆっくりと歩き続けている。
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