第16話 トイレの花子さん?

一番近いのは、残念なことに御手洗いだった。


次に王宮劇場、舞踊場。

図書室、音楽室、洗濯室、温室がほぼ同じくらいの距離だということだった。


ただし、桁違いの広さを誇る王宮のこと。近いと言っても一日で全てを網羅することはできない。


(まさか、異世界に来てまでトイレの花子さん?)


自分たちがついていくと直前まで王子たちに食い下がられたが、頑として断った。

王子たちを引き連れてぞろぞろなんて、ドラマで見た教授回診みたいで恥ずかしい。


ルーシェに案内してもらいながら、怪異の報告があった御手洗いに向かう。


「ここらしいです」


止まって扉の前をルーシェが指し示す。


「入らないの?」


両開きの扉の取っ手に手をかけ入ろうとすると、ルーシェがその場を動こうとしないので、不思議に思い訊いた。


「女性用です」


彼がいうので入り口の表示を見ると、確かにこちらの世界の言葉で「女性」と書いてある。

男性用でも、この場合、私は入らないといけなかったかな。


「私はどちらでもいいけど、いいの?王子様たちに私のやることを見張れとか言われているんじゃないの?」


「………それは」


顔を赤らめるルーシェが面白く、からかう。


「気が向いたら来て」


言って中に入る。

こちらの世界ではもちろん水洗トイレなんてものはない。

けれど、おまるの中に洗浄石が嵌め込まれ、近い仕様にはなっている。


王宮内は広いため、こういう場所は数多くある。

そのため、ここは変な噂が立ってから誰も使っていないらしい。

使う者がいないから、掃除をする者もいない。

埃が積もり、クモの巣も張られている。


個室は全部で5つ。右一列に並んでいる。手前から順に開けていく。

最初の4つは特に問題はなく、最後の一つになった。

恐る恐る扉を開ける。

他の4つと同じ、中央におまる。四方を壁に囲まれている。

ここも空振りかと落胆しかけた瞬間、壁にペタペタとひとつ、またひとつと赤い手形が現れ、やがてそれは壁全体を覆っていった。


「………!」


手形はうねうねと生き物のように蠢き、人文字のようにある言葉を綴る。


―助けて―


「何から?」


―取り込まれる―


「何に?」


―助けて―


質問に対する答えになっていない。

もはや意志疎通が難しい状況なのかもしれない。


「私ができる助けは、浄化だけだよ。ここに留まらせることはできないよ」


この場に固執する、地縛霊として放置することはできない。

自分が与えられる救いは魂を浄化し、本来魂が行くべき地へ送るだけ。

それも、浄化しきれなければ、消滅しか道はない。


「何をしているのですか、ここは女性用ですよ」

「あ、いえ」


使われていないとは言え「女性」用の前に立っているルーシェが、誰かに見咎められて怒られている声が聞こえて、そっちに気をむけた。次に個室の中を見ると、そこは薄汚れた壁があるだけだった。


廊下でルーシェに文句を言っていたのは、女官の一人だった。

いわゆる女性官僚のその人は、封鎖中の御手洗いから陽妃が出てきたのを見て驚いた。


「あなた、ここは使用禁止ですよ」

「知っています」


黒髪黒目の陽妃を頭から爪先までじろじろ見る女官にそれだけ答え、陽妃はルーシェに話しかける。


「すいません、ルーシェさん、お願いがあります」

「はい、何でしょう」


女性の文句から解放されて、ルーシェは明らかにほっとした様子だった。

女性は陽妃に無視されたことに苛立ち、色々言っていたが、陽妃は気にすることもない様子なのを尊敬の入り交じった目で見ている。


「ここを綺麗にしたいので、掃除道具を一式手配してください」


「え、掃除?」


「そうです。綺麗にしないと、トイレの神様に怒られちゃいますよ」


「え、神様?」


呆気に取られるルーシェとガミガミ女官に、陽妃はにっこり微笑んだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「トイレ?それは御手洗いのことか?」


「はあ、はっきり聞けませんでしたが、恐らくそうだと」


ルーシェはマリオン王子とリュシオン王子に、自分が見たままのことを報告していた。


あの後、ルーシェが侍女に声をかけ掃除道具一式を借り受けると、陽妃は二時間ほどかけて御手洗いを掃除した。


今は手配した仮眠をするための部屋で休んでいる。


「それで、どうなったのですか?」


「それはもう、ピカピカに……」


「そんなことを訊いているのではない。その御手洗いで何か変わったことはなかったのか?」


当然、そう訊かれるということはわかっていたので、ルーシェも尋ねたが、兎に角、汚い汚いと連呼して掃除に没頭されてしまい、はては乾かすために風魔法を使える人間を連れてこいとこき使われる羽目になった。


王宮に務め、御手洗いの掃除にかりだされ、ルーシェのプライドは弱冠傷ついていた。


「わかりません。お局女官にガミガミ言われるし、自分はこれでも騎士の端くれです。女性用の御手洗いに入るなど、親が知ったらどう思うか………あの人はトイレにいる神様は綺麗好きだから、綺麗にすると美人になるとか何とか、歌まで歌っていました。それだけです」


もう、勘弁してください。いくら王子様がたの命令でも、あの人のお守りは嫌だとルーシェは愚痴った。


「で、今は休んでいるのだな」


「はい、夕食ができたら起こしてくれと」


「……」


二人は複雑な気持ちで互いの顔を見合わせた。


厳しいことで有名なマーサ女官に見咎められたのも、御手洗い掃除に付き合わされたのも、自分たちが彼女に付くよう命じたせいだが、その後の展開は不運としか言いようがない。


自分たちに臆することなく意見を述べ、お腹がいっぱいになるまで食事を頬張り、歌を歌いながら御手洗いの掃除をし、今は夕食を気にしながら昼寝をしている。


始めはもう少し年上かと思ったが、それは占い師として貫禄を見せるためで、本当のところは二十歳になるかならないかの娘は、彼らが知る淑女とはかけ離れていて、正直、どう関わっていいかわからない。

昼食の時は二人も同席したが、夕食は父母である国王夫妻と一緒に取る必要があるため、そういう訳にもいかない。


「晩餐が終わったら合流すると伝えてくれ」


二人はルーシェにもう少し我慢して付き合ってもらうしかなかった。


「どう思いますか。兄上」


一旦、ルーシェを下がらせて二人だけになってから、リュシオンが今聞いたことについて、兄に意見を求めた。


「お前と同じようなことを思っていると思うが」


「そうですね」


二人はしばらく見つめあい、同時に笑いあった。


「あの、マーサを………」

「ルーシェのあの顔………」


ククククっと肩を小刻みに震わせ、笑い合う。


取り澄ましたご令嬢に囲まれてきた二人に取って、彼女の行動にはいちいち驚かされることばかりだ。


「平民でなければ、もし、月宮に選ばれなかった時には、俺はあいつでもいいぞ、退屈しないだろう。なかなか美形だしな。少々厄介な保護者がいるが」


「同感です」


もしかしたらの話ではあったが、二人の中で陽妃は特別な存在になりつつあった。

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