第2話 生きる実感

孤独の行き着く先は自殺か犯罪と相場が決まっている。




初老の男「タカハシ君、これやっといてもらえる?」


タカハシと呼ばれた男は振り向き、男の顔を見るといつも通りの無表情とも柔和ともつかない顔で答えた。


タカハシ「わかりました主任。今日中でいいですか?」


全くと言っていいほど感情が読み取れないが、声色は温和な人物を思わせる。


主任と呼ばれた初老の男「おう、助かるよ。よろしく」






ここはとある高層ビルの管理室だ。警備員と作業着を着た男がそれぞれ3人常駐している。

男たちはビルの管理を委託されている管理会社の従業員で、タカハシはその中で一番若く、一番現場歴の短い新人だ。

年配が多い管理会社の中では比較的エクセルなどの作業に強いので、よく書類の仕事が回ってくる。


タカハシは勤めて半年ほどだが、既に退職することが決まっていた。






理由は色々とある。


タカハシはとにかくこの仕事が嫌いだった。退屈で単調なルーティンワークをしていると心が擦り減り、頭がおかしくなりそうだった。

同僚、会社、協力会社、ビルのオーナー会社もテナントもすべて大嫌いだった。憎んでさえいた。


35歳になると多分、異業種にチャレンジできるのはラストチャンスになる。

最後にもう一度だけ別なことをやってみようと思ったのだ。


寿命の問題もある。

会社には隠しているが、タカハシには身体障害ある。

心臓にICDという機械を埋め込んでいる。この障害を持つものは、基本的に感電の危険性のある仕事はできない。

機械が誤作動を起こす恐れがあり、常に死の危険と隣り合わせになる。

それ以前に心臓に大病を患ったタカハシがそれほど長生きできないのは明らかだった。


障害を隠し続けるのも限界だと感じていたし、体も精神もボロボロになりつつあった。


毎朝心の中で唱える呪文がある。

「地獄地獄地獄地獄地獄」「自分は今地獄にいる」

タカハシは生きながら死んでいた。


毎日が憂鬱だったが、失業保険の受給要件を満たすまでは働かなければならなかった。


タカハシの生活には楽しいと思える瞬間がない。嬉しいも、愛しいも、美味しいも、高揚もなかった。

いつも負の感情に支配されていた。

大量の精神安定剤を服用して、それが引き起こす眠気に悩まされていた。


正の感情なんて、タカハシにとっては失敗を繰り返す人生の中で失われた物の一つに過ぎないのだ。

金だとか社会的地位だとか、友人だとか恋人、誇りも信念も、健康も未来も、何もかも失っている。

手に入れたものは何もないと言っても良いぐらいだ。


それは自身の不徳でもあるし、どうしようもない環境のせいでもある。

だけど、そんなこと考えても無駄だ。やり直せる年齢はとうに終わっている。


それでもタカハシは別の仕事に挑戦する。

上手く行くなんてこれっぽっちも思っていないし、失敗ばかりの人生にまた1ページが加わるだけだとさえ思っていた。


それでいいと思っている。

この男にはもう、ぶつかって砕け散ることぐらいしかできないのだ。




夜勤明けの疲れ果てた頭で、あと何日で退職か指折り数える。


「好きに生きるよ。あと何年生きられるかわからないからね」

部屋には誰もいない。自分に言い聞かせた。

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