第3話 悪夢



「明晰夢」というものがある。


「夢の中で夢だと認識する夢」だ。



道に迷った。さっきまで職場の近くで昼食を摂っていた。


知らない道に迷い込んでいるが、そんなことがあるか?


高いところから見渡せばわかるだろうと、どこかのビルのエレベーターに乗り込む。


「何かおかしくないか?」


「ああ、夢だ」



その瞬間、頭から倒れこみ、目の前が真っ暗になる。


目が覚める。


明晰夢を見たときは決まって汗まみれで目覚める。


そして人生という名の悪夢が続く。


夢の中の方がマシだった。








目が覚める。アラームは鳴っていない。


自然覚醒と呼ぶらしい。



カラカラに口が乾いていた。


水を飲む。


タカハシは水以外の飲み物を、決して口にしない。



酒は心臓病のため医師から禁じられている。下戸というわけではないが、そもそも嫌いで10年以上飲んでいないので関係ない。


カフェインはコーヒーだろうが緑茶だろうが例外なく胃を荒らし、強烈な吐き気を引き起こす。


ジュースの類も、水分補給を目的とするならば金の無駄だと考えていた。






少しの間何も考えず椅子に座る。


1Kで8畳ほどのその部屋は物で溢れかえっていた。


衣類が多い。薬が大きな収納ボックスからはみ出すほど詰め込まれている。



ギターが13本もあり、レコードプレーヤーが設置されたレコード棚は一枚の余裕もない。


机が2台、一方に27インチのiMacと少し大きなモニタースピーカー、もう一方にコンパクトタイプのWindowsが一台ずつ乗っていた。


レコーディング用の機材がラックに組まれている。やはりその上には衣類が散乱していた。


最早言うまでもなく、タカハシは音楽が好きだった。



過去の話だ。


今は音楽を聴くことも、好きだという感覚さえもなくなっていた。


レコードもギターも面倒臭くて放置しているが、そのうち大半は売るつもりだ。


衣類も整理したいと思っているが、体が動かない。



部屋は住人の内面を映し出す。


タカハシは幼少期からの貧乏が原因で物欲に歯止めが効かなかった。


散乱している衣類はグシャグシャになったタカハシの人生そのものだった。






「勉強しなきゃな・・・・」


タカハシは1週間ほど前に退職していた。


薬でぼんやりした頭で今後のことを考えた。


色々と勉強したいことがある。


しかし、頭と体がついてこなかった。



「疲れた・・・・」


もう10年ほどこの台詞を吐いている。


それでも自分なりに努力はしたつもりだが、状況は悪くなるばかりだ。



参考書を開くが、頭に入って来ない。


それでも読み進める。集中力が途切れ途切れになりながら何時間も。


「ファウスト」の一文を思い出す。


「人は努力する限り迷うものだ」


ある訳では


「野心を持つべきは道を踏み外す」



タカハシは迷っていた。


今、自分が人生の岐路にいることは間違いない。


そう思うと無力感と不安感に支配される。


進むべき道が見えないのだ。


自分の想像以上に脳が衰えていた。



孤独なこの男には相談すると言う選択肢がない。


失われているもののひとつだ。


両親にさえ相談できなかったことが原因だろう。


尤も、両親は相談に乗れるだけの経験や知識、延いては常識すらないのだ。



余談だが、彼の母親は「介護を続ければ看護師にもなれる」と言ったことがある。


弟が骨折で入院中、「元介護士の看護師がいた」と言っただけだ。


その瞬間堰を切ったように「そうだよ!続ければ開けるんだよ!」と強い口調で言った。


根本的にとてつもなく、絶望的に頭が悪かった。


「開けてねえよ!馬鹿が!」


反射的にタカハシが叫んだことは言うまでもない。馬鹿さ加減にうんざりしていたのだ。



タカハシは孤独を深めていった。

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