1-3 残響(ザンキョウ)

 ペキキ、パキ……


 木の枝を踏むような音が、人の身体の、やや柔らかい骨を噛み砕く音だと気付いた頃には、とっくにテッペーの声は途絶えていた。

 腕の中でサトルはまだ震えている。

 俺は、俺のほうは、少し変になっていた。


(あの化け物)


 身体の底のほうで、ふつふつと、こまやかな気泡が水面に立ち登るように、怒りが込み上げてくる。

 同時に、得体の知れない懐かしさが胸を掠める。

 これでも俺はガキの頃、健二と同じくらいには喧嘩っ早かった。生きるか死ぬかの瀬戸際で変なスイッチが入ったのかも知れない。


「サトル」


 呼びかけると、涙でぐしゃぐしゃになったサトルがゆっくり顔を上げた。

 俺はつとめて優しく彼に話しかける。


「鬼探しは、お前らが考えたの?」


 こんな時に何を言ってるんだとサトルは動揺しつつも、小さく頷いた。


 --目が合うまでは逃げちゃ駄目。


 あいつはそう言ってテッペーを食った。

 つまりあの化け物は、サトルたちの作った遊びのルールに忠実……なのかもしれない。確信などもちろんない。だが今この状況を打開できるヒントはそれしか得られていない。


「他のルールは?」

「え?」

「例えばほら、逃げながら隠れたらどうなる?また鬼と目が合うまでは逃げられないとか?」

 サトルがふるふる首を振る。

「それは、最初だけ」


 なら今後は隠れながら逃げられるな。

 俺は頷いた。


 前半は鬼が俺たちを探し、後半はこちらが鬼を探しながら逃げるってわけか。鬼探しとは洒落たネーミングセンスをしてる。俺と健二だったら、ハラハラチキンレース鬼ごっことかそういうダサいネーミングになるだろうに。

「……」

 無駄なことを考えているのは、そうしなければユウマやテッペーの壮絶な死に様が、頭を埋め尽くしてしまうからだろう。


 パキ、パキと音はまだ同じ場所から聞こえ続けている。


「あとは?」

 まだあるなら全て聞いておきたい。

 あいつがこの「鬼隠し」にこだわっているなら、ルールに何か抜け穴があるかも知れない。

 俺の真剣な眼差しを受けて、サトルも真面目に考え始める。

 しかしその後いくつか挙げられたものの中には、この場を凌げそうなルールは見当たらなかった。


(このまま這いつくばってても、いつかはきっと見つかる。武器の一つでもありゃ、まだ気が楽なんだけどな)

 仮にソレがあったとしても、あの得体の知れない存在に対抗できるとはとても思えないが。


「目が合うまでは逃げられないけど」

 

 俺が歯噛みしたのと、サトルがそう呟いたのは同時だった。



「でも、……鬼は、目があってる間は、追いかけたらだめ」


 それは、普段は特に使わないルールなのだろう。

 それもそうだ。

 息を潜めて鬼が横を通るのを見送って、うっかりくすくす笑って居場所がバレて、目が合った瞬間、双方わっと駆け出すのだ。

 そういうのが楽しい遊戯だ。

 こいつらは、そうやってずっと遊んできたんだろう。




 俺は強く瞼を閉じた。


「……やるぞ」


 再び目を開けた時、心は決まっていた。

 不安げにこちらを見つめるサトルは、俺が何をする気なのか薄々察しているらしい。メガネかけてるやつって、やっぱり頭がいいんだな。


「大丈夫。いざって時は俺が守ってやるから」


 イヤだと首を振っているサトルの手を強く握る。


「む、無理、だよ、他人じゃん」

「しらけること言うなよな」


 俺は、勢いよく社の裏から立ち上がった。

 ひいひい泣きながらサトルも背中にくっついてくる。

 そいつは、まだ同じ場所にいる。

 こちらから頭が見えないほど首を垂らして、テッペーの死体をむさぼり食っている。


「おい!!!!!」


 声はひっくり返ったが、足はまだ萎えてない。

 細かい骨を咀嚼する嫌な音が、途切れた。


「サトル、鳥居を出たら、勝ちだよな?」

「う、うん、うん、そう」

「俺は階段まで真っ直ぐ走ってきたんだ。だからお前、あいつがこっち見たら、真っ直ぐ逃げろ。俺も」


 後から行くから。

 続けようとした言葉は声帯を揺らすより早く、ねじつぶされた。ただ振り返っただけなのに。そいつが。そいつの、目が、溶岩を閉じ込めたような赤い目が、俺たちを見たから。



「  」



 ほつれたセーターの縫い目にも似た、歪な唇から恍惚とした音が漏れる。

 俺を奮い立たせていた勇気も度胸も消え失せた。

 鼻腔をアンモニア臭が掠める。 

 サトルが漏らしたらしい。

 それでも、隣で走り出す気配がした。一言も発さず、すぐそこで転んだ。何度も転びながら、必死で駆ける音が少しずつ遠ざかっていく。


 それはこちらを見たまま、まだ動かない。

 しかし俺は、思惑が当たった喜びを感じるどころではなかった。激しく後悔していた。恨んですらいた。俺をここへ連れてきた三人を、死ねと思った。


「はッ、……はッ、……はッ」


 息は吐かなければ吸えない。吐け、吸え、吐け、吸え、とそんな当然のことを必死に脳に命じながら、涙で滲む視界でそいつを睨み付ける。

 その次の瞬間には、哀願している。

(どうか助けてください。命だけは助けてください助けてください)

 即座に、何か強引な力に願いが打ち消される。

 感情など差し込む余地もない暗い目が俺を見つめている。

 俺の中にまた怒りが湧き上がる。次の瞬間、怒りは握り潰されて恐怖に変わる。哀願する。


 感情が、握られている--。



 そう気づいた時、俺のポケットで唐突に携帯が震えた。

 あいつとの視線を切らずに済んだのは、それが普段から聴き慣れた着信音だったからだ。


(……健二だ)


 一瞬で気が緩んだのか、俺は、情けないことにぼろぼろ泣いた。引くほど泣いた。視線だけは逸らさないように必死で目を見開きながら、泣いていた。

 途中「へっへっ」と、気持ち悪い声を出して笑ってもいた。

 もはや自分が泣きたいのか笑いたいのかも分からない。感情のピースがぐちゃぐちゃにかき回されてしまった。

 でも、覚えている。


 推しアイドルのデビュー曲を勝手に登録されたんだ。

 その日、健二は実は彼女にひどいフラレ方をしてて、その足で俺に会いに来て、泣き腫らした顔で怒り狂ってた。器用なやつだなと思っていた俺に向かって、あいつは言ったんだ。


「結婚するとか言ってたくせに、あのクソ女、」


 悪友の姿を思い出して、俺は鼻水を垂らしながら呟いた。


「約束ブッチとかマジありえねー、って、お前も人のこと言えねえじゃん」


 そうだ。ありえない。何一つ悪くない俺が、バイトに明け暮れて恋人の一つもいないかわいそうな俺が、こんなところで死んでいいはずがない。

 怒りでも恐怖でもない何かが俺を突き動かした。


 一歩、また一歩。階段の方へと後退する。

 目は逸らさない。

 逸らさないまま、踵が石畳の階段に達した時、俺はふと気付いた。


 あいつが、細かく震えている。

 痙攣している。

 まるで今にも駆け出したいのを必死で押し殺しているかのように。


 俺は、クスッと笑った。


「何だ、やっぱ、動けねーんじゃん」

 

 階段によってそいつとの視線が切れた瞬間、俺は身を翻して走り出した。

 奥のほうからすごい勢いで生い茂る草を掻き分け、何かが這いずってくる音がする。

 渾身の膂力を振り絞って階段を跳んだ。

 二歩目で辛うじて段の一つを踏み掴めたはいいが、当然後は勢いが先行して体勢を崩し、二十段ほど転げ落ちるハメになる。

 身体の下敷きになった左腕が嫌な音を立てたが、雑木林に放り出された後も、不思議と俺はすぐに起き上がって走り出せた。アドレナリンのせいか、身体のどこも痛くなかった。


 あとはもう、死に物狂いで逃げた。


 隠れながら逃げようという考えは、走り出した瞬間に捨てていた。

 一刻も早く、あいつの、精神を狂わせてしまうような歌声の届かない場所に行きたい。




「サトル!!」


 どれだけ走ったろうか。

 ボロボロになりながら、足を引きずって歩くサトルが見えた。サトルより更に10メートルほど向こうには、なんと、あの鳥居がある。


 鳥居の奥に覗く景色は、間違いなく、俺たちがいた長閑のどかな田園風景だった。


「結弦くん!!」


 振り返ったサトルが驚き顔のあと、俺の背後を見てすぐに泣きそうに顔を歪めたが、俺は足を止めなかった。折れていない方の腕を伸ばしサトルの手を取り、駆け出す。


「何ちんたらしてんだよ!走れよ!!」


 もう助かる。あそこを出たら、俺たちの勝ちだ。その思いから緩みそうになる緊張を、必死で張り詰める。

 しかし、俺に手を引かれているサトルは泣いていた。


「ぼく、ぼくさぁ……僕だけ、生き残ってさぁ」


 俺は驚いて言葉も出なかった。こいつ、こんな時にそんなこと考えてたのかと、俺は見事にキレた。


「ふざけんな!!いいから走れ!!」

「走ってるよう」

 べそべそ泣いてるサトルを無理やり引っ張りながら走る。


「だいたい、ユウマもテッペーも、お前だけ何で生きてんだって、怒るような奴なのかよ!」

「……うん」

「あ、そう。じゃあ……まあいいや、化けて出てきたら遊んでやれば。あ、俺はもう二度とお前らとなんか遊ばないけど!」

「ひどいよ!」


 サトルも足に力を込めたのだろうか。

 引っ張る力が一気に軽くなったおかげで、俺たちは勢いよく鳥居を飛び出した。

 

「はぁ、はあ、……はあ……はあ〜〜〜!!!!」


 景色は既に夕暮れ一色に染まっている。

 鳥居を抜けるなりその場に倒れ込んでしまった俺は、肺に酸素を必死で取り込みながら、茜色の空を見上げて、そして……耳を、済ませていた。聞こえない。あの不快な声は、もう聞こえない。粘りつくような視線もない。だけど……


 聞こえない。


 全速力で俺についてきていたサトルの、息遣いが。


「……」


 繋いでいた手を握りしめたが、まるで握り返されない。

 俺は口元に無理やり笑みを浮かべて、ヒクヒク歪んで気持ち悪い笑みを浮かべて、ゆっくりと隣を見た。


「っ、わあああ!!!!!」


 俺が掴んでいたのは、膝の辺りからブチリと引きちぎられたサトルの腕だけだった。


「……ざけん、な、っ」


 俺は倒れたまま、力任せに、地面を蹴り付けた。

 稲の刈り取られる前の、濡れた土に拳を打ちつけるたび、泥が跳ねて飛び散った。


「返せ、返せ返せ、返せよ!!ああっ、ああ〜〜〜!!!」


 土を跳ね除けながら立ち上がる。

 鳥居の内側にあいつはいた。


「……」


 無表情で、口元だけがぐちゃぐちゃと動いている。あのほつれたような唇が、人一人どうやって飲み込んだのかなど知りようもないがーーサトルは食われたんだ。


 腰より下が、大蛇の形をしている。

 関節が二つある細長い腕は地面について引きずられている。

 上半身は痩せた男だ。

 髪は長く、黒く、沼のように湿ってる。


 化け物。


 人間の胴と、大蛇の下肢の、継ぎ目のあたりがちょうど子供三人分、無理やり折り畳んで押し込まれたようにボコボコ膨らんでいるのを見て俺は言った。


「返せ」


 恐怖を感じる、人間の大切な器官はとうにぶっ壊れてしまったらしい。

 鳥居の内側に左腕を差し込み、そいつの前に手のひらを突き出す。思うように動かず、変な方向に曲がっている自分の腕を見て、そういえばさっき折れたっけと遅れて気が付いた。


 そいつは、暫く俺の腕をじっと見ていたが、次の瞬間、ケラケラケラケラと無数の木札を打ち鳴らすように笑い出した。



ケラケラケラケラケラ

ケラケラケラケラケラ




「かえしてあげる」


 

 流暢な声がしたと思った瞬間。

 想像を絶するような痛みが左腕を襲い、俺はあっという間に意識を手放した。

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