第1章 適性検査
第1話 新宿
小さなため息をつくと、駿は汗ばむ髪をかき上げて頭をかいた。右手に持ったベレーで胸元を扇ぐ。
「まいったな」
初めて訪れた新宿で、彼は道に迷っていた。
方向は合っているはずだったが、東口を出た広場でも西武線の入口はみつからなかった。携帯で地図を見ようにも、教育隊では携帯禁止だったので、解約して今は手元にない。
街路樹の木陰でオリーブドラブの衣嚢を歩道に置くと、花壇の縁に腰掛けた。梅雨明けの日差しの下、パンパンに膨れた衣嚢を持ったままでは、立っているだけでも汗が噴き出してくる。その上、左肩に食い込む古びた89式小銃は下に置く訳にもいかない。実働部隊では20式小銃が使われているが、教育隊では89式だった。
彼は黒色のブーツに迷彩柄の戦闘服上下という出で立ちだった。胸元にはドックタグと銃弾が付いたネックレスが覗いている。しかし、そんな姿をしていても周りを通り過ぎる人々は誰も彼に注目していなかった。
戦争が停戦になってから既に三年近くが経っている。移動中の軍人が街中を歩いていても不思議なことではなかった。
「誰かに聞くか」
指定された時間にはまだ余裕があったが、西武新宿駅を見つけないことには目的地にたどり付けない。
彼が声をかける相手を探して周りを見回すと、右手に彼と同じように花壇に腰掛けた少女がいた。
その目はまるで驚きに見開かれたかのように大きく、一片の雲もない初夏の空を放心したかのように見つめていた。
短く切り揃えられた髪は幼い少年のようでもあったが、細すぎるそれが日に透けて栗色に輝く様は赤ん坊のようでもあった。
鼻筋と輪郭は、線の細さと芯の強さが同居したかのような不思議なラインを描いている。
駿は美しさに魅了されたというより、何か不思議なものを見つけたような気がして心奪われていた。
すると、その少女が不意に振り向いた。
慌てて目をそらすこともおかしいだろう。
ほんの一瞬、駿が思案していると彼女はなぜかやさしく微笑んだ。ちょっと儚げな印象のある不思議な笑顔だ。
「軍人……ですか?」
手を合わせてくるおばあさんもいるほどなので、「がんばってください」などと声をかけられることもめずらしくない。だが、突然目を合わせた女の子からこぼれるような笑顔を向けられると、駿は動揺を抑えることが出来なかった。
駿は慌てて答えた。
「ええ。なりたてですが」
教育隊で3ヶ月の訓練を受けただけなので、新兵もいいところだ。とても胸を張って「はい」とは答えられなかった。
「そうですか」
彼女は肯きながら、なぜか一層の笑顔で答えた。
「あの。すいません道を教えて頂けますか」
どうせ声をかける相手を探していたのだ。この機を利用しない手はなかった。
「はい。知っていれば」
彼女は裾からくるぶしの覗くジーンズの上にたおやかな手を揃えて置いている。少し日に焼けた肌が眩しかった。
「どちらに行きたいんですか?」
「西武新宿なんですが」
「やっぱりそうですか。少し離れているんですよ」
迷子に見えたのだろうか。あるいは、目的の駅は迷ってもおかしくない場所にあるのかもしれない。
「私も西武線ですから、案内します」
そう言うと彼女は踵ですくっと立ち上がった。そして通りの先を指差すと軽快に歩き始めた。
駿は衣嚢を拾い上げ、小走りで横に並ぶ。
「助かります」
背丈は女の子とすれば標準的といったところだろう。それでも、彼女がソールの薄いランニングシューズを履いているため、駿とは10センチ以上の身長差がある。
パステルピンクのTシャツの上にはデニムベストを羽織っていた。そのおかげで正確なところは分からないが胸が豊かで無いことは間違いない。
「新所沢ですよね」
左肩の痛みに小銃の負紐を右に持ち替えると、彼女が小首を傾げながら聞いてきた。沿線にある駐屯地を知っているのだろうか。
「ええ。まあ……」
駿は答を濁した。
「あ、秘なら言わなくても結構です。すいません」
「いや、そうじゃないんだけど……」
確かに駿は新所沢に行けと言われている。だが普通は新隊員課程を終えると発令される職種も、そして配属部隊も、彼には伝えられていなかった。単に新所沢に行けと言われていただけなのだ。
「分からないというのはどういうことですか、班長!」
さかのぼる事二日前、駿は新隊員課程を教える教育隊の班長に詰め寄っていた。
「俺にも分からない。お前には新所沢に行けという命令しか来ていない」
新隊員にとって班長は絶対権力者だ。だがその班長が駿のあまりの剣幕に気圧されていた。
「新所沢には何があるんですか!」
「別府にあった41普連がいる。他は防衛医大くらいだろう」
「41普連……新兵部隊ですか」
41普通科連隊は九州戦で壊滅的な被害を受けたため、新兵が大量に配属されて再編成中だった。新兵がほとんどなため、通称新兵部隊と呼ばれていた。
「分からん。だが多分違うだろう」
駿はその目に疑念を浮かべて班長を睨み付けた。
「41普連に配属になってるやつもいる。そいつらにはちゃんと配属命令が来ている」
「ではまさか防衛医大なんてことはないでしょうね」
配属先はともかくとして、職種はある程度希望に沿って決められる。
駿は普通科、いわゆるは歩兵を強く希望していた。どんな職種でも、姉の復讐を果たすことはできる。だが駿は自分の手で直接復讐を果たすことを望んでいた。
駿と同じように普通科を希望している者も少なくなかった。だが九州・沖縄で生じた大量の欠員を補うには希望者が足りていなかった。それに再び戦闘が始まれば前線に赴く可能性の高い戦闘部隊を敬遠する者も多かった。
だから普通科や機甲科に関しては、余程適性を欠いていない限り希望すれば望みは叶ったのだ。
「俺に言えることは何もない」
静かにそう言う班長に対して、駿は拳を握り締めるしかなかった。
女の子にそんな事を話しても分からないだろう。
「実は俺も知らなくてね」
「行き先……じゃないですよね」
「あはは、行き先は新所沢だよ。でもそこに行った後でどうなるかは聞いてないんだよ」
彼女はちょっと驚いたような顔をしていた。元々大きな目が一層大きく見開かれていた。
それもそうだろう。駿は自分でも自分の答えが間抜けに思えた。
「そうですか」
そう言うと、彼女は何かを考え込むような顔になった。
「あの……頑張ってくださいね」
「え、ああ。ありがとう」
急に真剣な顔つきで言われたので駿は戸惑った。はたして何を頑張れということなのか。それを聞いてみようと思った矢先、突然に乾いた爆発音が響いた。
かすかな衝撃波を伴って耳だけでなく体全体で感じ取れる乾いた爆発音は、訓練で何度も聞いた銃声だった。
駿はとっさに衣嚢を投げ捨てると駆け出した。負紐を右手で掴んで振り出し、89式小銃を両手で控える。
弾帯に付けたポーチからマガジンを取り出すと小銃にを叩き込み、スライドを引いて初弾をチャンバーに送り込んだ。
銃声は軽い感じがしたので小口径の拳銃か何かだろう。
「中国人は出て行け。日本で商売できると思うなよ!」
通りの先から、男の声とさらなる銃声が響いた。
そして、それに混じって駿の後ろからは軽い足音も聞こえてきた。振り返ると少女も付いてきていた。
「君は下がってて!」
「いえ、私も」
押し留めたいところだったが男の声は遠くから響いたものではなかった。
前を向くと湾曲した道の先二十m程に男の姿が見えた。男は中華料理屋に拳銃を向けて立っている。彼は油染みの付いた青いつなぎを着ていた。
駿の教育隊での成績は高いものだった。だが射撃だけは並以下だった。駿はこの距離で急所を外しながら確実に当てる自信は持っていなかった。そのまま走って距離を詰めた。
幸い後ろから響いていた足音は続いて来ていない。
「動くな!」
駿は男から5mほどの位置で小銃を構え、安全装置を解除すると鋭く言い放った。
停戦中とは言え戦時下では人の心も荒れる。治安の悪化による警察官不足を補うため、現行犯に限っては軍人にも警察官と同じ権限が与えられていた。
そのために銃の携行も認められている。
「銃を捨てろ!」
男は拳銃を料理屋に向けたまま、憎憎しげな表情を浮かべた。そして、ゆっくりと両手を挙げると指先をトリガーガードにかけて拳銃をぶら下げた。
「銃を捨てろ」
再度警告すると男の手から拳銃が滑り落ちた。駿は少しだけ緊張の糸を緩めた。
だがその瞬間、男は黄色い歯を見せるとニヤっと笑った。
激しいブレーキの音が響き、駿の左に車が急停止する。駿は銃を男の右肩付近に照準したまま視線だけ車に向けた。
そこで駿の目に入って来たのは、黒塗りの車から彼に向けられた3つの銃口だった。
しまったと思う刹那、全身から汗が噴出す。
男に接近しすぎたためか、道路にまで視界が及んでいなかった。そもそもテロリストが逃走手段を準備していないはずもなかったのだ。
駿が自らのヘマに舌打ちすると、3点バーストのような連射音が響いた。駿は蜂の巣になった自分の姿を想像した。
だが体の何処にも痛みは感じなかった。
同時に拳銃を構えた3人の肩口から僅かな血しぶきが飛んだ。駿は何が起こったのか理解できなかったが、残る脅威は目の前の男だけだという事は分かる。
「動くな!」
再び拳銃を拾い上げようとした目の前の男を制し、左足で拳銃を蹴り飛ばす。
再び車に目をやると、車内の男たちは左手を上げていた。彼らの視線は、駿の後に向けられていた。
「お前らも動くなよ」
駿は三人に言い放った。そして左の肩越しに後ろを振り返ると、そこには先ほどの少女がいた。
彼女は銀色に輝くリボルバーを車の男たちに向けている。駿にとっては見慣れない小ぶりな拳銃だった。
そして、もう一つ駿の目を引いたのは少女の瞳だった。その瞳は暗闇で輝く猫の目のように金色に輝いていた。
この子が撃ったのか?
周囲の家影から事件を覘きこむ野次馬の他には、周囲に人影はない。
この少女が撃ったとしか考えられなかったが、フルオートで連射したような音がしたにも関わらず、3人の男たちは正確に右肩を射抜かれていた。しかも彼女の拳銃はリボルバーだ。
果たしてそんなことが出来るのか?
男たちを制したまま思考を巡らせているとパトカーのサイレンが近づいてきた。赤いパトライトを点滅させ、黒い車の前後にパトカーが急停止する。
そこから飛び出してきた警察官が四人の男を拘束すると、駿は緊張を解いて小銃を下ろして安全装置をかけた。
後ろを振り返ると、少女は何かをつぶやきながらベストの下に覗くショルダーホルスターに拳銃をしまっているところだった。俯いて目を閉じていたので瞳は見えなかった。
「君は警官だったの?」
「いえ。私も軍人です」
少女はこちらに歩みを進めながらそう答えた。駿を見つめる瞳はよくあるこげ茶色だった。見間違いだったのだろうか。
彼女は軍人だと答えたが、力強さどころか線の細さを感じさせる外見からは俄に信じられなかった。
しかしIDを見せてくれと言ってきた警察官に差し出されたカードは、駿と同じ陸軍の身分証だった。
「ちょっと事情をお聞きさせてもらっていいですか?」
駿が「はい」と答えると、その少女は黙って肯いていた。駿は彼女が何者なのか気になったが彼女とは別の車に案内された。
パトカーの後席中央に衣嚢を放り込み、腰をかけると隣の警察官に言った。
「手短にお願いします」
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