四の二(完)
――凛としたものだ。
心中乃里は感嘆した。
二の腕を胸にひきつけるようにして、切っ先を上空に向けて構えた保江のその姿は、まるで鶴のようだ。雪原で鶴が獲物を待ちかまえているように、気品に満ちていた。
鈴鹿流薙刀術だという。
どうせ、屋敷に師範を呼んで型を習っただけで、お愛想程度に免許をさずけられたくらいのお嬢様
だが、こうして佳麗な立ち姿を目にすると、保江の持つ技能はお嬢様の手習い程度のものではけっしてないとわかる。
ともすれば、町道場の雑草のようにたくましい男たちに揉まれて剣術をみがいた乃里ですら、気おされてしまいそうになるほど保江の構えは優雅で、威厳と気品をもって乃里を圧してくる。
乃里は、相手の動きを見極めるつもりでいる。
保江がわずかでも動いた瞬間に、刃の軌道を見極めて、その機先を制しなくてはならない。でなければ、間合いの広い薙刀に刀一本ではとうていかなわない。
そう乃里は思っていた。
だが、保江もそう思っている。攻撃範囲の広さがとりえの薙刀ではあるが、ふところに入られれば、
雪が、乃里にも保江にもひとしく降り積もる。髪に、肩に、静かに降り積もっていく。
乃里は、指の先端に感覚がなくなっていくのを感じていた。
まずいと思った。このままでは、手足がかじかんで思うように反応できなくなる。
この時点で、乃里は保江の悠揚さに負けたといっていい。
乃里が動いた。
それは、切っ先がぴくりと痙攣した程度のものであった。
だが、その動きに、保江は過敏に反応した。
乃里の頭上はるか高所から刃が振り下ろされた。
左の肩めがけて落ちてくる白い閃光を、乃里は地を這うようにしてかわし、かわしつつすべるように体を相手に寄せていく。
返した刀の峰で、乃里は保江の手を打った。
薙刀を振った勢いと、手を打たれた衝撃で、保江は前につんのめった。
ふたりがすれちがった拍子に乃里は体を起こし、つむじ風のように身を回しつつ保江の頭にめがけ刀を一閃させた。
揚げ帽子が雪空にはらりと舞い、斬られた髷が飛んだ。
保江は薙刀を落とし、はっと目を見張りつつ、乃里に向けて振り返った。ほどけた髪が顔を覆い、その隙間から覗く憎悪に満ちた眼光すら、どこか異様な艶めかしさを秘めている。
「ただですむと思うな」
血走った、刺すような眼差しで乃里をにらみすえてくる。
「ただですませていただきます」静かな目で見かえして乃里は言った。「手はすでに打ってあります。今後、私に危害がおよんだ場合はもとより、もし、夫が左遷させられたり、怪我をしたりするようなことでもあれば、ことをすべておおやけにします。そこにあなたの意思が介在していようといまいと、おおやけにします」
「卑劣な。卑怯者め、恥を知れッ」
「夫が、婚儀の後、私になんと言ったと思います?」
突然の噛み合わない乃里の言動に、保江は眉をひそめた。
「笠原道場の紅天狗なんて呼ばれているから、どんな熊みたいな女が来るかと思った。そういったのですよ、失礼ですよね。そんなふうに夫にからかわれるような、剣術しか能のない私でも、多少の知恵はまわります。あなたのような、悪辣非情な人をやっつけるためなら、その知恵がたとえ卑劣でも、卑怯でも、私は恥じません」
保江はなにか言い返そうとしたが怒りのせいで言葉にならず、ただ割れんばかりに歯を噛みしめていた。
「くれぐれも私の家族に害がないように。せいぜいご懸念あそばせ」
乃里は精一杯優雅なふうに小腰をかがめて小さく会釈をすると、その場を立ち去った。保江がどのような形相で乃里の背を見送っているかなぞ、気にもかけないようなすました顔をして、もう見かえりもしなかった。
――これでいい。
乃里は思った。日記をとおして義兄の松之介と友達になれたような気がしていた。その友達の仇を討てた。これでいい――。
裏木戸の脇の垣根のうえから路地に張り出した梅の木は、もう花が満開だったのに、今朝の雪を綿帽子のようにかぶって、なんとも寒々しい。
そう思いながら乃里が木戸をくぐると、居間で
ばつの悪さを顔にださぬように気を配りながら、乃里は庭を横ぎって、縁側から上がった。
「なにをしておいでです?」
「雪もこれが
広之進は背中を丸め、炬燵に腕を突っ込んで猫背になって座って、どこに風流がきざしているのか、まるでわからない格好をしている。そして、億劫そうに茶を入れると、お前も入りなよ、体が冷えただろう、と乃里に茶碗をさしだした。
言われるがままに茶を受け取って、炬燵に膝を入れて座った。ところへ、広之進が、
「俺はがっかりした」
とため息混じりに言った。
「ずいぶんがっかりした。夫にないしょで果たし合いなんて」
「……申しわけもございません」乃里は目線を揺れるお茶に落として答えた。
「このあいだ、お前が道場にお見舞いに行ったとき、あんまり帰りが遅いんで迎えにいった。そうしたら三七郎さんと言い争いをしているのを見てしまったんだ」
そうか、夫はすべて知っていたのか、と乃里は胸がつまるような気持ちになった。こうなった場合に心に決めていた言葉があった。
「もし、あなたが望むなら、離縁……」
「今度決闘するときは必ず言うんだ」広之進は乃里の言葉をさえぎって、「次は俺が立合い人になってやる」
「あら」乃里は意外な広之進の気持ちに目を丸くした。「それじゃあまるで、私がやたらと喧嘩っぱやい女みたいじゃありませんか」
「真実そうだろう」
「果たし合いなんて、今生でいっかいきりです。二度といたしません」
「そうだといいな」
「まあ」
「なんせ紅天狗だからな」
乃里は、微笑む夫から顔をそむけて庭を見た。
雪にはねた日の光が、うるんだ瞳にしみるようだった。
(了)
雪のはて 優木悠 @kasugaikomachi
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