四の一
明け六つ前の、真っ暗な時刻ではあったが、夜中から降り出した雪のせいもあって、空は星ひとつみえないほど雲が垂れこめていた。提灯の明かりも雪にさえぎられて、弱々しく乃里の手元だけを照らしていた。
乃里は例の男用の着物をたすき掛けに袖を絞って、その上から羽織をかけていた。
雪は降っていたが、風はほとんど吹いておらず、見かけの寒々しさほどは、乃里の体はさほどに冷えてはこなかった。
田畑のあぜ道を歩いて、気がつけば
雪曇りの空ではあったが、それでも日は足早に昇って、東北の
その薄い明かりに、黒い霞のように浮かびあがるのは、
恍明寺と烏原の間には丸衣川が横切っていて、土手の手前にたたずむ小さな人影があった。
――保江どのか。
おそらくそうであろう。雪のうっすらと積もる荒れた大地をふみしめるようにして、乃里はその影に向けて近づいていった。
果たし状は、目明かしの仲蔵に託して、利根保江まで届けてもらった。仲蔵はうまくやってくれたようだ。聞き込みのために、家老の屋敷ないに入り込むことなど造作ない男であった。書簡の一通ばかり、たいして労せずに届けてくれるだろうと乃里は期待していた。ただ、酒手はずいぶんはずんだ。どう転ぶかわからない勝負にいどむ以上、へそくりを出し惜しみする理由もなかった。
左手の、丘の上には楠の大樹が孤独に、しかし威厳をもって枝葉を広げていて、その下にもひとつ人影がみとめられた。こちらは平岡三七郎に違いない。
乃里は、ほっと安堵した。
三七郎にも手紙をしたためて、仲蔵に届けてもらった。
――あなたの忠告は身にしみる思いであったが、やはり義兄の無念を晴らしたい一念は心中より去らず、思いきって利根保江に果たし合いを申し込むことにした。武運つたなく破れたのならばそれまでであるが、私が勝ったにもかかわらず、報復として野上家になにかしらの危害をあたえてきたならば、くだんの秘密を世間に広めるなり、利根家老の政敵である水野家老の耳にでも届くようにしてもらいたい。
というような内容の手紙であった。
その手紙を読んで、三七郎は駆けつけてくれたのであろう。乃里は彼に、決闘の助勢を期待しているわけではない。ただ、保江が卑怯にも、――例えば男性の剣士を何人かそろえていたとしても、これで心配せずにすむ。いざとなれば、いや、いざとならなければ、彼は楠の陰から出てはこないだろう。
乃里が保江に向かって歩んでいく間にも、どんどんと山の端は明るみをたたえ、烏原の荒野にも薄雲を通り抜けた光が落ちていた。
なぜ果たし合いなどするのだ、とあの時三七郎は訊いた。
いま決闘にのぞんでも乃里自身その問いの答えは模糊としてつかめない。
義憤と言えば義憤なのだろう、憐憫と言えば憐憫なのだろう。
しかし突き詰めてしまえば、そうせねばならぬからそうするのだ、という単純な言葉しか想いをあらわす言葉はない。
ふたりの間は、雪のなかでもお互いの姿がそうとわかるほどに近づいて、三間ほどのところで乃里は足をとめて、提灯を消した。
保江はすでに抜き身の薙刀を小脇にかいこんでいた。
雪と雑草だけの荒涼とした景色のなかで、目にはえる牡丹色の小袖にたすきをかけて、長船に結った髪に揚げ帽子をつけて、決闘にのぞむにも品位を持ってのぞむとでも主張しているようだ。
背丈は、乃里よりも顔半分ほども高く、すらっとした細い肢体をしていて、冷たく感じられるほど端麗な顔立ちの切れ長の目でじっと乃里をみつめていた。
「笠原道場の紅天狗」
嘲弄するようなつぶやきが、保江の薄い唇からもれた。
「品のないあだなをつけられるだけあって、ずいぶんみっともない格好で決闘にいらっしゃるのね」
保江の微笑する目もとにも口もとにも、乃里に対する軽侮がにじんでいた。
「虫も殺さないような顔をして、ほんのわずかな瑕瑾につけいって、他人の幸せを踏みにじるようなまねが、よくもまあできるものね」保江は見下すような視線のまま続けた。「お金もない、地位も名誉もない、子もできない、持たざるものが持つものをうらやむなど醜悪な行為だと気がつかないの?」
彼女にとっては今の生活はごく普通の生活なのだろう、と乃里には感じられた。幸せのなかに浸る人間の常で、幸せをつかめない者の気持ちなどはまったく忖度せぬ。ただ侮蔑するだけであった。
乃里は自分が不幸せであるとは思わない。金も地位も名誉もなくとも、子ができずとも、けっして不幸せだとは思わなかった。だが、保江から見れば、侮蔑にあたいする、持たざるもの、なのだろう。
乃里はなにも答えなかった。
話したいこと、罵倒してやりたいことは胸が張り裂けるほどに溜め込んでいたはずなのに、いざ保江の顔をみると、何故かもうどうでもいいような気持ちになった。
乃里は軽く彼女に頭をさげ、羽織を脱ぎ捨て、手早く股立ちをとって草履を脱ぐと、刀を抜いた。
保江は乃里が正眼に構えたのを悠然とみとどけて、薙刀を構えた。
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