三の五

 裏木戸を通って道場の庭に入ると、それまで無言で歩いていた三七郎が、ふいに口を開いた。

「気がすんだか」

 そう乃里に訊いてきた。

 もう五つ半(午後九時)近いはずだが、道場の脇の母屋はまだ雨戸をたてておらず、道場主の部屋からは、お滝と太右衛門の楽しげに談笑するの声が聞こえてくる。

「まだ」ぽつりと独り言のように乃里は言った。「まだ仇討ちは済んでいません」

「仇討ち……、決闘でもする気か?」

「はい」

「馬鹿を言え」

「保江という人は、聞けば薙刀の免許をお持ちだとか。でしたら、なんの気兼ねもなく闘えるというものです」

「そんなことを言っているのではない」

 乃里は、口をむっと引き結んで、目をつりあげて三七郎をにらんだ。

「もう充分満足するべきだ」三七郎の声は静かで、たしなめるような響きだった。「俺たちは家老の娘に、淫蕩癖のあることを知った。しかも既婚で子供もいる女だ。こんな秘密を握ったんだ、充分だ」

「ならば、義兄の気持ちはどうなるのです」たかぶる感情を押さえもせずに、乃里は話はじめた。「義兄は、孤独な人でした。人から軽侮され、邪険にされ、それでも笑って生きているような心根の優しい人でした。あの女は、そんな善良で、世間の片隅で静かに生きているなんの罪もない人をそそのかして、自分のために人を殺させたんです。ゆるせません」

「なんだそれは。義憤か。嫁入り先の、血もつながらぬ義兄のために命をかけて仇討ちするほどの義理などないだろう」

「そんな、義憤だとか、義理だとか、そんな安っぽい理由でしようというのではありません。それは……」

 乃里は言葉を失った。なぜだろう、なぜ私はそこまで松之介どののために戦おうとするのだろう――。

「それみろ。たいした理由などお前の心裡しんりにありはしないのだ。ただ利根の娘の秘事を知って、憤懣に突き動かされているだけだ」

「だとしても、このまま放っておいては、義兄が浮かばれません」

「馬鹿を言え。松之介どのはこれでいいと心底から納得して死んだんだ。お前が憐れもうとも松之介どのは好いた女のために命を捨てて満足できたんだ。それをお前は、狭隘きょうあいな目でかわいそうだと断じ、身勝手な思いを彼の人生に押しつけている。それは死者に対する冒涜だ。世間は、孤独に人知れず死んでいくものを憐れだと言う。だが、孤独に死んだものが死ぬ瞬間どう思っていたかなどは、実際死んだものにしかわからない。たしかに、無念だとか寂しいだとか悲嘆にくれて死んでいった者もあるだろう。しかし、たとえ孤独に死んだとしても、それでいいと思いながら死んだのならそれでいいのだ。死者の末期まつごの思いを他人が身勝手な見地であれこれ斟酌すべきではない。それとおなじだ。お前の勝手な憐憫なぞ松之介どのに対する冒涜にすぎない」

 乃里は口を曲げたまま、三七郎を見ていた。いつかその黒目勝ちの目には、涙にうるんでいた。三七郎はその目をみても、容赦せずに続けた。

「久しぶりに会って、紅天狗も変われば変わるものだ、とそう思っていた、だが性分というものは変わらないらしい。鼻っぱしらの強いところだけは、たしかに紅天狗のままだ」

 その言葉を聞き流して、乃里は三七郎の部屋に飛び込んで、涙をこらえたまま着替えはじめた。

 物音を聞いて帰ったのがわかったのだろう、お滝が部屋の前まで来て、お手伝いしましょうと言った。だが、乃里は断って着替えを続けた。頬を伝う涙を、人に見られたくはなかった。

 着替えを終えて、太右衛門に挨拶をして庭に降りると、三七郎はまだ庭に立ったままで、乃里を見つめてくる。乃里はわずらわしげに顔をそむけて頭巾をかぶった。三七郎の視線がうとましかった。そうしてそのまま頭をさげもせずに通り過ぎて木戸をあけた。あとを、提灯をさげてお滝がついてくる。

 と、そこに横合いから、ふいに人影が差した。

 はっとして身構えると、広之進である。

「いま帰るところか」安堵した声音で吐息とともに夫は言った。「あんまり帰りが遅いものだから、迎えにきたんだ」

 乃里はなんとも答えなかった。ただ、はいとうなずいた。

 お滝たのむよ、と広之進は彼女を先に行かせると、蝋燭ろうそくがもったいない、などとつぶやきながら自分の提灯の火を吹き消した。

 瞬間、乃里の瞳に侮りの光が差した。

 家族のためだと言いながら、勝手向きをかえりみることもせず法事の食事を仕出し弁当にしようとした夫が、吝嗇りんしょくにも蝋燭いっぽんを気にしている。

 人間のこういう心理というのはどういうものだろう、と乃里は思った。

 利根保江もそうだ。人のうらやむような星のもとに生まれ、おんば日傘で育ち、周りからちやほやされながらも、淫蕩にふけっている。そのために人がふたり死んでも、平然とまた男と逢瀬を重ねている。

 彼女の夫の修次郎はどうなのだろう。松之介を踏みつけにして手づるを得て、大番衆から家老の家に婿に入って、今では小姓として藩主に近侍する身分にまで昇りつめた。古今まれにみる出世を果たしながら、夫人の浮気を知ったらなんと思うのだろう。ひょっとすると、すでに知っていながらそしらぬふりをしているのだろうか。知っていながら殿様のそばで取り澄ました顔をして仕えているのだろうか。

 わからない。一本気に生きてきた乃里には、そういう人間の持つ二面性がまったくわからない。

 並んで黙々と家路を歩く夫婦を、冷たい十三夜の月が照らしていた。

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