三の四

 しばらくして、ひとりが乃里たちのいる部屋の前を通り、去っていった。案内の女中のものだろう。

 男は誰だかわからない。声音に中年の渋みが感じられるし、利根修次郎でないことは確かなようだ。いずれ仲蔵が探ってくれるだろうが、乃里にとってはさほど重要な存在であるとは思えなかった。

 ――保江の間男。

 その程度の認識である。

 部屋の間の壁は薄く、衣擦れの音さえも聞こえそうなほどであったが、男と女の話しは、ひそやかに交わされていた。薄い壁を通して乃里の耳にも声自体は聞こえてきたが、内容までは判別できず、もどかしいものだった。きれぎれに、

「目付の目がやっかいで……」

「そんなに、……の監視が厳しかったか」

「それは……。着替えまでのぞかれているような気分で……」

「難儀なことだ」

「嫌疑も……、晴れました。……気兼ねなく……お会いできますわ」

 それからまた、声は抑えたように小さくなった。乃里の周りで耳をそばだてている、ふたりの男の鼻息のほうがうるさいくらいである。

 やがて、料理の膳や酒も運ばれ、気持ちがほぐれてきたのか、聞きとれるくらいに声が高くなってきた。

「しかし、良かった。あの男が刺されてくれて」男が酒をすすりながらそう言った。

「ほんとうに」と心底うれしそうな保江の声が聞こえた。

 乃里たちは今まで以上に、ひと言も聞き逃すまいと、耳朶に神経を集中させた。

「あの島崎という男、よもや私をゆすってくるなど思いもしていませんでした。金をよこせ、さもないとふたりの関係を城中に広めてやる、などと。まったく欲の深い男ですわ。お側衆なら、それなりに実入りは悪くないでしょうに」

「そういう欲の深い男だから、あなたに引っかかったのだ。あなたはそういう強欲な人間がすきなのだ」

「そのようないじわるなことを言うのね。だとしたら、あなたも欲深な人ですの?」

「保江どのも保江どのだ」男は保江の問いに答えずに続けた。「誰彼かまわず男に手をつけるものだから、そういう痛い目に会う」

 ふふふ、と保江は苦く笑ったようだ。

「しかし、野上の松之介殿はようやってくれました」

「あなたも悪い女だ。自分のために身をささげる手駒を、他に何人用意しているんだ。両手の指だけで数えきれるかな」

「あら、人聞きの悪いことをおっしゃる」

「どうせ、島崎を殺してくれれば、抱かれてやるとでも言って籠絡したのでしょう」

「また人聞きの悪い。私はただ、困った男がいると、あの頭のたりない男の耳元でささやいただけですわよ」

「あはは、腹を切っては抱かれてやることもできんか」

「まったくあと味の悪いこと。別に死んでくれとまでは申していませんわ、わたくし。愚か者はああだから困りますわ」

 乃里はかっと頭に血が上った。

 逆上のおもむくままに、跳ねるように立ちあがった。そのまま隣の部屋に飛び込んでやろうと思った。

 が、その袖を、平岡三七郎がつかんだ。

 きっとにらんだ乃里の目を受けて、三七郎は抑えるように目顔で言った。

 かまわずに乃里は歩き出したが、ひっぱられた拍子に畳の目に足袋が滑って受け身もとれずに転倒した。したたかに脇腹を畳に打ちつけ、すさまじい音が料理屋の二階じゅうに響き渡った。

「まあ、はしたない」壁の向こうから侮蔑するような女の声が聞こえた。「閨事ねやごとひとつ静かにできないものかしら。これだから庶人はあきれますわ」

 歯噛みして、乃里は壁の向こうの声の主を睨みつけた。

「姦婦め」

 噛んだ歯の隙間からもらすように乃里はつぶやいた。


 料理茶屋から出ると、夜の冷気が肌に刺さるようだった。昼間ならば風の冷たさも幾分やわらいできたが、日が暮れるとともに、冬の寒さが息を吹きかえしてきた。

 男の素性を調べるために仲蔵を残し、丸山小兵衛は乃里たちと別れ役宅へと帰った。

 懐手をして歩く三七郎のちょっと後ろを乃里は歩いていた。

 侍の、三人連れの酔客が大声で何かわめきながら、ふたりの前を横切って飲み屋に入っていった。

 千鳥足で歩く町人の男もいたし、肩がぶつかったのぶつからないのでもめている町人たちもいた。

 昼間は若者や女性たちでにぎわうこの門前町も、夜になれば見苦しい男たちの盛り場に変じるのだった。風に乗って流れてくる、鼻を突く酒の臭いは、男たちの気息はもとより、町の家々や道端にそういう臭いが染みついているような気が乃里にはする。

 人々は平然と生活している。飲んで騒いで、たわいのない理由で口論したりして、呑気に生きている。この中には松之介の事件を聞いたことのある者もいるだろう。なのに、誰も松之介の葛藤や苦痛を知りもしないし考えもしない。人がひとりふたり、喧嘩の末に命を落としたところでこの人たちには心を痛める義理もなければ縁もありはしないのだ。そう思うと乃里は腹の中に重い靄のようなものがわいてくるようであった。それは悪意をもった生き物みたいに胃の腑に絡んで締めつけるようであった。乃里は、すれ違うひとりひとりが疎ましくさえ思えてきた。

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